■憲実判断が裏目に出て戦火が関東全域に拡大
こうして永享一〇年八月に、例のご霊光とともに憲実が本拠の上野平井へ発つわけだが、幕府幹部(管領)の細川持之の書状などから憲実の動きは事前に幕府と示し合わせていたことが窺える。
ただし、憲実が幕府軍と呼応するなら箱根方面へ向かうべきだが、逆方向の上野へ逃れたのは、彼の中にはまだ持氏と幕府の融和に期待するところがあり、直接対決をためらったためだろう。だが、のちの展開を見ると、その判断が裏目に出たといえよう。箱根方面の南関東のみならず、北関東でも鎌倉公方方と幕府方の武士たちが戦い、戦火を広げる結果になったからだ。
しかも、乱終結後の永享一二年(1440)に下総(茨城県)の結城氏朝が持氏の遺児を奉じて挙兵(結城合戦)し、戦乱は収まらず、やがて、この
「鎌倉公方vs関東管領・幕府」の対立軸が享徳の乱を招き、関東の民衆は戦禍に喘ぐのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。