ダービーの前に、東京競馬場の芝コースを経験させるため、トライアル・NHK杯に出走。GⅠでないにもかかわらず、なんと、17万人に迫る観客が殺到した。レースはアタマ差で勝ち切り、単勝と複勝の払い戻しは、100円の元返しだった。

肝心のダービーでは、3着と期待を裏切ってしまうが、レース中継したテレビの視聴率は、NHKと民放を合わせて、30%もの数字を叩き出している。

この敗戦でも人気は下降せず、さらにヒートアップ。「ハイセイコー神話」とともに、第一次競馬ブームが訪れた。

しかし、成績はここからスランプ状態となってしまう。三冠最後のレース・菊花賞でタケホープのハナ差2着、年末のグランプリ・有馬記念ではストロングエイトの3着。なかなか、勝てない日々が続く。

古馬になり、伝統のGⅡ・中山記念で久しぶりに大差勝ちを演じるも、天皇賞・春で敗れてしまう。

●地方出身の馬が中央のエリートを撃破するロマン

そして、1974年6月の宝塚記念。このレースでハイセイコーは、圧巻のレコードで優勝し、後続のクリオンワードに5馬身もの差をつける。やはり、強い時は強い!と、周囲の人気は再び燃え上がった。

年内で引退が決まっていた同馬は、暮れの有馬記念で2着後、競走生活に幕を下ろした。

種牡馬としては、カツラノハイセイコ(ダービー、天皇賞・春)、ハクタイセイ(皐月賞)などを輩出している。

また、1975年、増沢騎手が歌う『さらばハイセイコー』が発売され、そのレコード売り上げは50万枚にも上った。続いてリリースされた『ハイセイコーよ元気かい』も14万枚を売り上げている。同馬の人気がいかに凄まじかったかが分かる。

一般大衆に競馬を文化として浸透させた役割は、非常に大きい。地方出身の馬が中央のエリートを撃破することに、人々はロマンを感じたようだ。

もちろん、実力も高かった。不敗神話が崩れた後、勝てない時期もあったが、爆走した時の「強さ」は、超一流馬のそれに値する。その豪脚は永遠に語り継がれるのだ。

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