“マット史上最大のヒット興行”と言われるのが、1995年10月9日、東京ドームで行われた「新日本プロレスvsUWFインターナショナル 全面対抗戦」だ。人物の背景には、両団体フロント間の数年に渡る遺恨の存在があった。その内実を、いま当事者たちが語る。
新日本プロレスの黄金時代には、まだ明かされていない真実があった……。重要人物たちのインタビューで当時のプロレスを徹底検証する双葉社ムック「新シリーズ 逆説のプロレス」より、三人の鼎談を一部抜粋してお届けする。
新日本プロレスvsUインターの、はじめて明かされる20年目の真実とは!?


■鈴木健
すずき・けん●1953年生まれ。高田延彦公認のファンクラブを結成し、精力的な活動を展開。91年、Uインターのフロント代表としてプロレス界に入った。現在は、世田谷区用賀でやきとり居酒屋「市屋苑」を経営。

■安生洋二
あんじょう・ようじ●1967年、東京都杉並区生まれ。高校卒業後、UWFに入門し、91年、Uインターに参加。取締役として、団体経営に携わり、帰国子女の経験から、外国人レスラーとの折衝にあたった。

■永島勝司
ながしま・かつじ●1943年、島根県生まれ。専修大学卒業後、東京スポーツで敏腕記者としてならし、88年に新日本に入社。89年の東京ドーム初進出や、00年の新日本vs 全日本など、数々のビッグイベントを仕掛けた。


※特別鼎談、前半の内容はコチラhttps://taishu.jp/16147.php


―両団体には、山崎一夫参戦をめぐるトラブルもありましたね(95年7月)。

永島 うん、あれ、俺が引き抜いたんだ。俺自身が山崎に興味あったの。食品会社にいた共通の知り合いに「紹介してよ」って言ってね。

鈴木 思い出した! 全面対抗戦の交渉時に、山崎さんの引き抜きのこと、「じゃあ、700万で解決でどう?」って永島さんに言われたの。でも、そのお金、まだ貰ってないよ!

永島 その後すぐ、全面対抗戦になったからな。

鈴木 こっちの方が大事だろって、お互いに忘れちゃったんだよね。

安生 山崎さん、練習まったく来なかったですからね。団体にいたというイメージが僕にはないんですよね。若手の練習みるわけでもないし。道場派からすると、「何でこの団体にいるんだろう?」みたいな存在ではありましたよね。

―そして、全面対抗戦への流れに。

鈴木 もともと、自分から新日本に電話をかけたんですよ。新日本がなんか、経営的にヤバいらしいという情報もあったし。

永島 北朝鮮興行(95年4月)での借金な。

鈴木 UWFというのも新日本から出てきたものだし、そういう意味で、若手の対抗戦を打診したんですよ。お互いの将来のために、向こうもウチもいい若手がいたし。新日本さんが元気ないとプロレス業界は潰れますから。

永島 美しく言い過ぎなんじゃないの?

鈴木 いやいや本当に。それで、永島さんと全日空ホテルで会うことになった。

永島 俺がその時、健ちゃんに言ったのは、「若手じゃツマンナイよ。頭(トップ)から行こうよ」と。

鈴木 僕はUインターにその話を一旦持ち帰ったんだけど、その夜には永島さんから電話が。「全面対抗戦で行くぞ」と。

永島 まあ、北朝鮮の借金の件もあったし。これ返さないと、どうしようもない感じだったから、1発当てたい気はあった。

鈴木 比べて、こっちは本当に純粋な気持ちだったから、交渉はスムーズでしたよ。ただ、永島さんが宮戸の存在を気にしてたね。

永島 宮戸の考えは、〝プロレス観〟とは言えなかったからね。長州が嫌ってたし。俺もだけど。

鈴木 俺とも少し違ってた。宮戸はガス燈時代のプロレスに戻したがってて、俺はさっきの若手対抗戦じゃないけど、新しいものを生み出したかったからね。

永島 東京ドーム前哨戦の「長州、永田vs安生、中野」ってあったじゃない?(95年9月23日・横浜アリーナ)。あれが無茶苦茶、面白かったから、これは絶対行ける! って、長州と喜んだの覚えてる。

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