攻防 1 江崎グリコ社長の誘拐が事の始まり

「まだあるんだな~。30年以上も前ですからね。もうないかと思ってましたよ」
大阪の茨木市と摂津市の境界付近、安威川左岸の水防倉庫を見て、北芝氏が感慨深げな声を上げた。

この倉庫は、一連のグリコ・森永事件の端緒となる江崎グリコ社長誘拐事件で、江崎勝久社長(当時)が監禁されていた場所だ。背の高い草が生い茂る河川敷にポツンと建つ倉庫は、事件当時、テレビで見たのと同じ姿であった。
1984年3月18日、自宅で長男(11)、二女(4)と入浴中だった江崎社長は、風呂場から誘拐された。そして犯人は、身代金10億円と金塊100㎏を要求した。

だが、指定された受け渡し場所に犯人は現れず、事件は長引くかと思われたが、その矢先の21日、江崎社長は、この水防倉庫から脱出してきたのだった。
「警察に保護された江崎社長は当初、事情聴取にすんなりと応じていたんですが、グリコの幹部が駆けつけたときに、2人で20分ほど密談すると、めっきり話さなくなったんですよね」(北芝氏=以下同)

その後も犯人からグリコへの脅迫は続いたが、社長が救出されたこともあり、
グリコは犯人側の要求に応えなかった。すると犯人は、警察やマスコミへの挑戦状、江崎社長自宅への脅迫電話、グリコ本社及び関連子会社への放火、江崎社長の名前が書かれた塩酸入りポリ容器が発見されるなど、要求拒否への"報復"は過激になっていった。

4月23日、報道機関に届いた挑戦状で、犯人は初めて「かい人21面相」を名乗る。さらに5月10日に報道機関へ届いた挑戦状には、
「グリコをたべて びょう院え いこう」とあり、グリコ製品に青酸ソーダを混入し、バラ撒くという犯行予告の内容だった。
大手量販店はグリコ製品の撤去を始めた。

青酸ソーダによる脅迫は続く。5月と6月、グリコの取引先の香料製造会社に"3億円を出せば青酸ソーダの脅しをやめる"という旨の脅迫状が届く。商品撤去による売り上げ急減に喘いでいた同社は、取引に応じることにした。
3億円の受け渡し場所に指定されたのは、摂津市内の焼肉レストラン「大同門」。犯人の指示どおり、白いカローラと3億円を用意し、指定時間に待機した。車には、エンストを起こすよう細工がしてあった。車内にはグリコ社員2人が待機、トランクにはエンストを起こすスイッチを持った捜査員1人が潜伏し、周辺にも30人ほどの捜査員が張り込んだ。

一人の男が車に近づき、乗り込んで発進。そして車がエンストを起こすと、追尾した捜査員が男を拘束する。だが、それは犯人ではなかった。
犯人は"運び屋"を調達していたのだ。男性の証言によれば、指定場所から約2㎞離れた淀川堤防で車を停めて恋人といたところを襲撃されたのだという。そして犯人は、男性に焼肉店まで行くよう指示すると、一緒にいた女性を別の車に乗せ、誘拐した。ちなみに、この女性は枚方市の光善寺駅前で解放されている。
「犯人は3人組だといいますが、襲われた男性は元自衛官なんです。相手が武器を持っていたとしても、並の男3人だったら、まず負けないでしょう。だから犯人たちも、なんらかの訓練を受けた人間でしょうね」

犯人が一向に逮捕されないことで、警察に対する国民の不満も高まっていた。そんななか、警察は徹底的な捜査を展開し始める。いわゆる"ローラー作戦"だ。
「事件が起きているのが、茨木、摂津、寝屋川、高槻など大阪府北東部に集中していたことから、この地区の80万世帯を一軒一軒しらみ潰しに聞き込みしたんです。でも、警察の威信をかけた捜査も空しく、犯人は見つかりませんでした」

そんななか、6月24日の新聞各紙に、グリコはイメージ広告を出す。
「ともこちゃん、ありがとう。グリコはがんばります」
少女から届いたグリコを激励する手紙を掲載し、それに応える内容だった。その2日後、新聞各社に「江崎グリコ ゆるしたる」と書かれた挑戦状が届いた。
突然の"休戦宣言"だが、事件はこれで終わらなかった。以後、犯人は丸大食品、森永製菓と標的を変えて食品会社を脅迫していった。

特に森永は、実際に青酸ソーダ入りの商品を店頭にバラ撒かれた。
「どくいり きけん たべたら死ぬで」
これまで青酸入りの菓子が送りつけられたことはあったが、店頭で発見されたのは初めて。これを手始めに、兵庫、大阪、京都、愛知のスーパーなどで1週間に13個の青酸入り森永製品が見つかった。
「最初に発見された西宮市のコンビニでは、メガネと野球帽をつけた背広姿の不審な男が防犯カメラに映っていて、その映像が、後に公開されましたね」

これで日本列島は再びパニックに陥り、店頭からは森永製品が一斉に消えた。グリコ同様、森永は大打撃を受け、その損失額は200億円以上とも言われる。
犯人はその後もハウス食品、不二家、駿河屋とターゲットを変えて攻撃した。しかし、11月のハウス恐喝以降、表立って現金が要求されることはなかった。
進展しない状況のなか、極秘捜査を行っていた警察は、徐々に情報を公開していく。特に、10月に公開された女性や子供の声による脅迫電話の録音テープは、世間に衝撃を与えた。年が明けると、切り札とも言うべき"キツネ目の男"の似顔絵も公開された。これには膨大な情報が寄せられるも、犯人逮捕の手がかりは掴めなかった。

そして85年8月12日、「くいもんの会社いびるのもおやめや」と書かれた手紙が新聞各社に送りつけられる。事実上の「終結宣言」だった。
この間、犯人は一度も姿を見せることはなかった。犯人が誰で、何を目的としていたのか、現在も解明されていない。

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