これ以降の攻城戦で最も有名なものと言えば、大坂城を徳川方が攻め、信繁の名を高めた大坂の陣だ。信繁は、堅固な大坂城からニュッと突き出た形の攻撃拠点として真田丸を築くのだが、その築城技術は、まさに武田信玄流。実は父の昌幸は信玄の側近中の側近で、その軍術や築城術を直に学んでいた。

「武田家の本拠は、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館(山梨県)という簡素な館で、信玄の“人こそが城”という考えに基づくものでした。しかし、後を継いだ勝頼の代に本格的な城が必要となり、昌幸が築城を任されます。そしてできたのが新府(しんぷ)城。上田城もそうですが、それぐらい昌幸の築城技術は高く、信繁にも受け継がれていたんです」(郷土史家)

 さらに、信繁は上杉家の人質にもなった経歴から、その居城である春日山(かすがやま)城(新潟県)も見聞しており、「カリスマ武将・謙信の居城でありながら、それとは裏腹に何かに怯えているような縄張りなんです。実は謙信の政権基盤は常に不安定で、大坂の陣の際の豊臣家も同じ状態。真田丸を築いた背景には、城内の派閥抗争に嫌気がさしたこともあったのでは」(前同)

 現在、春日山城には目に見える当時の建物はない。躑躅ヶ崎館もそうだし、大坂城もそうだ。しかし、随所に遺構は残っており、男たちの自信と不安が見え透けるようだ。

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