■ミスター・ジャイアンツがプロレスのテレビ中継に大興奮

 その1年後、立教大学野球部の智徳寮で、テレビのプロレス観戦に熱中する選手がいた。後の“ミスター・ジャイアンツ”こと長嶋茂雄だ。雑誌『テレビサライ』のインタビューで、当時の驚きと興奮を述懐している。〈もちろん白黒のテレビで。そのときは、力さん、そう、力道山の出ているプロレスでした。力さんの空手チョップもよかったけれど、世の中にすごい文明の利器が生まれたんだなと〉

 プロレスとプロ野球と世界は違えど、力道山と長嶋の両雄はテレビ中継がブームになることを早くも予感していた。奇しくも日本プロレスの試合も、長嶋が入団した巨人の試合も、日本テレビが中継することになった。「力道山と長嶋さんはプライベートでも、まるで兄弟のように親交が深かった。長嶋さんは、よほど力道山に心酔していたのか、敬子夫人と長嶋さんとの交遊は力道山の没後も続きました。敬子夫人は長嶋夫妻と新築ビルのオープニングパーティなどで、一緒に会食したそうです」(興行関係者)

 また、力道山以外に、長嶋が親しかった大物有名人といえば、真っ先に名前を挙げられるのが、石原裕次郎その人だろう。「長嶋さんと裕次郎さんは、“シゲオ”“裕ちゃん”と呼び合う、まさに“兄弟分”の仲。裕次郎さんは『男の友情背番号・3』という長嶋さんの応援歌を企画し、歌っているんです」(前同)

 60年12月2日、東京・日比谷の日活国際ホテルで行われた石原裕次郎と北原三枝の結婚披露宴には、力道山と長嶋がそろって出席。「その2年後の正月、裕次郎夫妻と長嶋は、雑誌の企画でアメリカ旅行へ旅立ちました。ニューヨーク、マイアミ、ミネアポリス、ロサンゼルス、ラスベガスを周遊する25日間のバカンスだったといいます。当時、独身だった長嶋は、“マコさんをいたわる裕ちゃんのレディー・ファーストぶりにあてられました”と、笑いながら話していたのが印象的でした」(取材に当たった芸能記者)

 裕次郎夫妻と長嶋がアメリカ旅行を楽しんだ62年は、力道山が日本航空客室乗務員だった田中敬子さんにプロポーズして、承諾を受けた年でもあった。「63年6月5日、ホテル・オークラで力道山と敬子さんが挙式。仲人は自民党の大野伴睦副総裁で、招待客は3000人。当時のマスコミは、史上最大の豪華な結婚披露パーティと報道しました」(元テレビ局幹部)

 すごかったのは結婚披露パーティの規模だけではない。出席者も日本を代表する超大物ぞろいだった。「政財界から河野一郎大臣、川島正次郎大臣、正力松太郎日本テレビ会長、永田雅一大映社長をはじめ錚々たる顔ぶれでした。芸能界からは三船敏郎、森繁久彌、鶴田浩二、春日八郎、村田英雄らの面々。横綱・大鵬や白井義男ら、スポーツ界の大スターたちも出席。フランク・シナトラやジョン・ウェインから祝電も寄せられたそうです」(前同)

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