■アントニオ猪木が師匠と別れの盃を
人気・実力とも絶頂だった力道山は、63年12月8日、赤坂のナイトクラブ・ニューラテンクォーターで暴漢にナイフで刺され、その傷が原因で同月15日に39歳の若さで他界。力道山の内臓は、打撲と飲酒などで、かなり痛んでいたという。「力道山を刺した男が反社会組織の組員だったため、事件後、力道山がプロレスの興行で世話になっていた田岡一雄組長と、反社会組織トップとの話し合いで、偶発的な事故として手打ちが行われました」(前同)
関西方面の興行を取り仕切る勧進元の田岡三代目と懇意にしていた力道山は、敬子夫人との挙式前に婚約の報告で挨拶に行っている。そのときは、京都の老舗『一力亭』というお茶屋の2階を貸し切り、舞妓たちをズラリと揃える大変な歓迎ぶりで、〈その様に圧倒されて、深々とお辞儀をして挨拶するのが精一杯。田岡さんは“よく来てくれましたね。まあ、飲んでください”とお酒を勧めて下さって、緊張をほぐして頂きました〉と、敬子夫人は田岡三代目との懐かしい思い出を自書で漏らしている。
力道山の葬儀は、12月20日、東京・大田区の池上本門寺で行われた。葬儀委員長は自民党の大野伴睦副総裁だったが、訪韓中のため、葬儀委員長代行を日本最大のフィクサーといわれた児玉誉士夫が務めた。力道山の通夜の席で憔悴しきった敬子夫人を励まし続けたのが児玉だった。弔問客にはその筋の関係者も多く、不安がる夫人を児玉は、「あの手の連中は、近寄らせないから。まだ若いのに大変だろうけれど、頑張りなさい」と元気づけたという。
葬儀には政財界や芸能界、スポーツ界をはじめ、各界の名士や多くのファンが参列。その列は本門寺から池上駅付近まで続き、1万2000人が力道山との別れを惜しんだ。
力道山亡き後、その意志を継いだレスラーといえば、アントニオ猪木だろう。「60年にブラジルでスカウトした17歳の猪木少年をリキ・アパートに住まわせ、身の回りの世話をさせながら、地獄のような猛練習を課していました。猪木の代名詞である“闘魂”は、力道山がよく色紙に書いていた座右の銘。猪木さんのビンタは力道山仕込み。力道山の教えを実践し、継承しています」(元新日本プロレス幹部)
力道山が暴漢に刺された日の午後、猪木は力道山の部屋へ呼ばれた。当時の最高級ウイスキーだった“ジョニ黒”を駆けつけ3杯。勢いよく飲み干した。「同席していた高砂親方(元横綱・前田山)が“こいつ(猪木)は、いい顔してるね”と言うと、力道山は自慢げに“そうだろう”と頷いたといいます。“その一言が俺を救ってくれた”と猪木は自伝『俺の魂』で綴っている。駆けつけ3杯は師匠である力道山と猪木の“別れの盃”になってしまいました」(前同)
日本プロレス界の父が歩んだ豪快で華麗な軌跡――。力道山と、“兄弟分”の関係にあった長嶋、裕次郎が日本を元気にしてきたのだ。