浅香唯
浅香唯

 80年代に「アイドル四天王」の一人として、多くの男性ファンを魅了した浅香唯さん。今でも変わらぬかわいらしさを見せる彼女が、その活躍の裏側を本音で語ってくれました!

――1985年にレコードデビューされていますが、そもそもアイドル歌手になろうと思ったキッカケは?

浅香 赤いステレオが欲しかったんです(笑)。

――え、どういうこと?

浅香 84年に『シューティング・スター』という漫画の“浅香唯”というキャラのイメージ・ガールを探すためのオーディション企画があったんです。私は芸能界にまったく興味がなかったんですけど、そのとき副賞になっていた“赤いステレオ”がすごくかわいくて、どうしても欲しくなっちゃったんですよ。

――では副賞が“赤いステレオ”ではなかったら……。

浅香 絶対、受けていなかった(笑)。

――でも、オーディションから1年後、85年に“フェニックスから来た少女”というキャッチコピーを掲げてデビューしています。心変わりした理由は?

浅香 オーディションの後、いくつかの芸能プロダクションからスカウトがあったんですが、私の芸能界デビューに関しては家族全員が猛反対していたんです。親戚一同が集まって会議を開いていたぐらいで……。でも、家族会議の様子を見ているうちに、“私の人生のはずなのに、大人たちで勝手に決めてる”って反発心が湧いてきて。逆に「アイドルをやりたい!」って宣言しちゃったんです。

――ご両親が最終的には折れる形に?

浅香 そうでもなかったんですね。後日聞いたんですけど、私のデビューによって家族がバラバラになりそうだったみたいで……。私が実家の宮崎県から上京した日は、中学校の卒業式と同じ日だったんですけど、母は最後まで「あなたを東京に出すのは絶対に認めないから、見送りはしない」って言っていて。父も空港までは送ってくれたんですけど、見送りまではしてくれませんでしたね。

――上京して3か月後にシングル『夏少女』でデビュー。その後、87年まではヒットに恵まれませんでした。実家に戻ろうとか、後悔の気持ちは?

浅香 それは、まったくなかったですね。学校での生活がすごく楽しかったし。一方で、両親に会いたいって気持ちはあったけど、声を聞いたら絶対帰りたくなると思ったので、上京するときに“電話はしない”と決めていたんです。でも、父も母もすごく心配していたようで、私の居候先に毎日電話をかけて東京での私の生活ぶりを聞いてくれていたみたいですね。

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