薬師丸ひろ子
※画像は『セーラー服と機関銃 角川映画 THE BEST』[DVD]より

80年代アイドル美女黄金白書
第5回・薬師丸ひろ子

 薬師丸ひろ子は、特別な存在だった。

 80年代のアイドルシーンを公立の共学校にたとえるとすれば、彼女はそれとは一線を画した、私立の名門校に通う女生徒。そんなイメージがあった。

「いたって真面目な性格で、言葉遣いも丁寧。普段の言動から育ちの良さ、知性を感じさせました」(映画関係者)

 そのあたりは、真似しようと思っても簡単には真似できないものだ。

「聖子、明菜、キョンキョンは、『デビュー前には地元の不良たちと遊んでいたのではないか?』……そんな妄想も掻き立てられる存在で、またそこが魅力でしたが、薬師丸ひろ子にはそうした色合いは皆無。間違いなく彼女は80年代を代表するアイドルの一人ですが、他のアイドルとは別世界に住んでいたのです」(芸能誌記者)

 その別物感、特別感、プレミアム感は、本人の資質に加え、当時所属していた角川春樹事務所の周到なブランディングによるところが大きかった。

 主演映画の宣伝は大々的に展開する一方で、『明星』や『平凡』の表紙には登場しない。バラエティ番組でコントを披露することもない。スーパーの屋上でサイン会なども行なわない……。

 この戦略は功を奏し、他のアイドルたちとの差異化に成功したのだった。

 人気を決定づけたのは81年公開の映画『セーラー服と機関銃』だ。任侠団体組長となる女子高生を演じたこの作品で、セーラー服姿で機関銃を乱射した後に、つぶやくセリフがインパクト大だった。

「カ・イ・カ・ン」

 このシーンを効果的につかったテレビCMは大量にオンエアされた。そのため、映画を観ていない人たちの記憶にも強く残っている。

 また、同作の主題歌で歌手デビュー。オリコンで年間チャート2位となる大ヒットを記録する。

 超売れっ子となっても、決して安売りをしなかった。映画以外は、角川の関連出版物など特定の媒体でしか露出しないことで、ファンは常に飢餓感をおぼえていた。これに拍車をかけたのが大学受験のための休養宣言である。

「いまは大学に進学するアイドルは珍しくないですが、80年代にはかなりのレアケース。この学業優先の姿勢は、知的イメージを演出することはあっても、マイナス要素はありませんでした」(スポーツ紙記者)

 アイドルにとって、メディアから姿を消すということは致命傷にもなる。ところが、彼女の場合は露出しないことで、その価値を高めたのだ。

 83年、大学生となってからも、その人気は衰えなかった。むしろ、復帰第一作『探偵物語』の公開劇場には、飢餓感を一刻も早く解消したいファンが殺到した。

 その後も『里見八犬伝』、『メインテーマ』と連続ヒット。角川映画の金看板として女優アイドルという同時のポジションを盤石なものとした。84年の『Wの悲劇』では初のベッドシーンを演じファンをドギマギさせている。

 その後、いろいろあって85年に角川から独立。それからはさまざまなタイプの作品に挑戦していく。角川時代にはあまりみせなかったコメディエンヌとしての才能も発揮した。

 プライベートでは、91年に玉置浩二と結婚という、今思えば意外とも言える経歴もあるが、7年半で離婚している。

 2000年代以降の薬師丸は、母親役を中心に、演技者として高い評価を得ている。06年には『ALWAYS 三丁目の夕日』の演技で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞。アイドル時代には縁のなかったテレビドラマにもたびたび出演。歌手活動も継続し、14年には『紅白歌合戦』に初出場を果たした。

 13年のテレビドラマ『あまちゃん』で、脚本家の宮藤官九郎は薬師丸ひろ子が演じた女優・鈴鹿ひろ美にこんなセリフを用意した。

「続けるっていうのも才能よ」

 映画『野性の証明』での女優デビューから今年で40年。50代半ばになった彼女は、演技派の女優として、熟練した歌手として、その才能をいかんなく発揮している。

80年代アイドル美女黄金白書

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