■「謙信も信玄も怖れた妖術使い」加藤段蔵(生没不詳)

 戦国時代中期に活躍した加藤段蔵は、“飛び加藤”とも称されたように超人的な飛翔術でどんなに高い塀や広い堀でもいとも簡単に飛び越えたという。また、牛1頭を丸呑みする“呑牛の術”なども得意だったという。

 上杉謙信に「手に一尺余の刀さえあれば、いかなる堀、塀も飛び越えて城中に忍び入ることができまする」と大見栄を切り、謙信が家臣の直江兼続の屋敷に忍び込み長刀を盗み出せと命ずると、長刀と召使の娘まで連れ去ったとか。最後は段蔵を警戒する武田信玄に討たれたという。

■「忍者の代名詞“真田十勇士”のリーダー」猿飛佐助(生没不詳)

 甲賀流忍者・戸澤白雲斎の下で修業した佐助は15歳の時に真田幸村(信繁)に見いだされ、真田十勇士のリーダー的存在となり活躍する。幼少時から力持ちで、山中で猿と暮らしていたため、猿のように素早く俊敏に動き、両手で印を結ぶと姿を消す術も身に着けていた。

 猿飛佐助自体は架空の忍者だが、佐助のモデルとなった忍者は実在し、永禄年間(1558~1569)に活躍したという伊賀十一人衆のひとり、下柘植木猿(しもつげのきざる)。本名“上月佐助”という忍者が正体だという。

■「 “くの一”養成機関のトップ」望月千代女(生没不詳)

 “甲斐の虎”武田信玄の切り札だったのが、女忍者「くの一」集団だった。信玄はくの一を歩き巫女(諸国を放浪し、加持祈祷を行なった)に仕立てて全国に派遣している。

 千代女はその巫女を養成する「巫女道修練場」の責任者を務めていた。望月姓は甲賀忍者の上忍の家系である。一人前のくの一となって巣立っていった巫女たちは、全国に散らばり諸国の動静を信玄に伝えた。さらに、美貌を活かしたハニートラップで、有力武将の側室や愛妾となり、機密情報をもたらしたという。

■「 独眼竜に仕えた黒脛巾組の忍者」大林坊俊海(1567〜?)

 伊達政宗は、全国にネットワークを持つ出羽三山の修験者たちを忍者として利用していたが、俊海もそのひとりとされる。のちに、政宗の隠密集団である黒脛巾(くろはばき)組に入る。

『伊達秘鑑』によれば、政宗が宿敵の蘆名義広を摺上原の戦いで撃破した裏には、俊海らの子細な情報収集があったとされる。北条に付くか豊臣に付くか迷い、結局、豊臣に付いた小田原参陣でも、大林坊ら黒脛巾組がもたらした「秀吉の圧倒的有利」とする情報が決め手となったという。

 歴史を支えた影の功労者・忍者たち。素性を隠し任務を全うする姿には、ロマンが詰まっている。

※『EX大衆』2018年9月号より

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