特集「戦国武将の父」【徳川家康編】松平広忠に背負われた負の遺産の画像
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 この連載で3回にわたって特集してきた有名戦国武将の“父”。輝かしい戦果を残した武田信玄上杉謙信織田信長がいずれも、その莫大な財産を残されたのとは対照的に、最後を飾る徳川家康は父である松平広忠から人質生活という運命を背負わされた。

 その舞台となる三河(愛知県東部)は永正八年(1511)に細川成之が死去して以降、甲斐や越後、尾張と違って守護が不在だったようで、土豪の松平氏がこれに代わり、西三河で勃興した。

 広忠の父で安城城の城主だった松平清康は一三歳のとき、一族の中でも庶家に当たる安城松平家の家督を継承。その彼は家康以前の松平一族が生んだ最大のスターで、同じ一族(岡崎松平家)の城である岡崎城を奪い、広忠が生まれてしばらくした享禄二年(1529)、東三河の吉田城を攻め落とすと、さらに、その翌年頃には岡崎城を現在の場所に移して城下を整備し、菩提寺の大樹寺を造営した。

 のちに、この岡崎城で生まれた家康が天下人に躍り出ることになる。その基礎を築いた祖父の清康は以降も攻め手を緩めることなく、通説によれば、三河をほぼ統一したともされる。

 実際、彼が優れた武将だったことは確かなようで、大久保彦左衛門は後に著書『三河物語』で、「清康、三十まで御命長らへさせ給うならば、天下をたやすく治めさせ給わん」と嘆いている。これは二五歳で亡くなった清康があと五年、長生きすれば天下を取ったということだが、むろん、割り引いて考えなければならない。

 当時、東三河の侵略に意欲を見せる駿河の今川家が、若い当主(今川氏輝)に代替わりして国内を固める必要があった。

 一方、のちに三河を席巻する尾張の織田信秀も他国に侵攻する余裕がなく、清康はその隙を突いて三河の国衆を服属させたためだ。

 こうした中、清康は天文四年(1535)一二月三日、同じ松平一族で、尾張の守護代・織田達勝に従属していたと考えられる信定の居城・守山城(名古屋市)を攻めるため、岡崎城を出陣。

 ところが、その二日後に城を包囲中、重臣の阿部正澄が敵に内通しているとの流言を発端に、早とちりした子供の弥七郎に背後から斬りつけられて惨殺されてしまう。これを「守山崩れ」という。

 当時、その子である広忠は一〇歳。松平一族を統率することができないばかりか、岡崎城にいれば、信定らに殺されかねない。そこで、広忠はここから逃れ、城は信定のものとなった。

 一方、阿部正澄はこのとき、弥七郎の罪を償おうと、幼い広忠を奉じて伊勢に亡命。広忠はその後、今川義元の援助を受け、駿河を経て三河の毛呂城(岡崎市)に落ち着いた。

 この間、東三河が事実上、今川家に占領され、西三河も織田信秀の圧力を受ける中、広忠は今川家の支援により、天文六年(1537)六月にようやく岡崎城に戻り、一二歳で元服。

 やがて父の仇というべき信定が死去したものの、尾張の信秀に安城城に攻め入られ、父・清康の居城だった城を織田方に奪われてしまう。

 今川家に支えられることでようやく岡崎を維持することができた広忠は、三河と尾張の国境である刈谷城主の水野忠政の娘を妻に迎えた。

 彼女が家康の生母於大で、翌天文一一年(1542)一二月、嫡男の竹千代(家康)が生まれた際、松平家は隆盛時と比べ、ジリ貧の状況だった。

 しかも、頼りにしていた水野家で忠政が没し、子の信元が跡を継ぐと、信元が織田信秀に属してしまった。

 広忠は今川家の機嫌を損なわないために於大を離縁。幼い竹千代は母と引き離された。

 それでも広忠の不幸の連鎖は終わることがなく、織田方に寝返っていた叔父の松平信孝らが岡崎城を攻め落とそうとすると、もはや今川家に加勢を頼むしかなかった。

 今川義元は、その見返りに竹千代を人質に要求。だが、田原城主の戸田康光に裏切られ、竹千代は駿河に向かう途中でさらわれ、織田方の人質になった。

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