■家康の祖父と父の死で“妖刀伝説”が生まれた

 こうして広忠はこの頃から試練の連続となり、西三河に進出を図る織田方の戦いに明け暮れなければならず、実際、天文一六年(1547)に信秀が岡崎城を「押さえた」、つまり確保したという史料もある。

 むろん、真偽は不明で、広忠は翌年に今川の加勢を得て、織田勢に大勝している。

 そして、安城城から出陣した織田信秀は、今川義元の軍師といわれる太原雪斎を大将とする勢力に、小豆坂(岡崎市)の合戦で蹴散らされ、傷心の晩年を過ごすことになった。

 一方、広忠はその宿敵より早く、天文一八年(1549)三月六日にこの世を去った。享年二四。短く、苦難続きの人生だった。死因については、病死説がある一方で、近臣、岩松八弥に殺害された説も根強い。

 そして、この岩松八弥説を巡って、興味深い話が残されている。清康と広忠の父子が二代にわたって家臣に殺される異例の最期もさることながら、彼らを斬った刀がいずれも村正(刀工名)だったとされる点だ。ここから「村正は徳川家に祟る」という妖刀伝説が生まれ、のちに家康を大坂冬の陣・夏の陣で苦しめた浪人武将・真田信繁が、江戸時代になって幸村と呼ばれるようになるのは、「村」が妖刀に因んでいるからだ。

 いずれにせよ、家康は前述の通り、父親の財産を引き継いだ名将とは違い、負の遺産を引き継いでスタートしなければならなかった。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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