■感染症対策の“プロ”が肺結核で死亡は本当か

 しかし、洪庵はそのまま政治活動にのめり込まず、続いてコレラ対策に着手。除痘館の活動が政府公認となった安政五年夏、大坂でコレラ菌が猛威を振るったためだ。

 むろん、当時はペニシリンなど抗生物質治療薬がなかった時代。オランダ医師のポンぺ(幕府が招いた外国人医学教官)の治療法が、その門下生である松本良順(のちの三代目西洋医学研究所頭取、初代陸軍軍医総監)によって訳されていたものの、洪庵はそれだけでは不十分と考え、洋書からコレラの項を抽出して訳し、『虎狼痢(コロリ)治準』を刊行した。

 なお、洪庵が同書で、ポンぺの治療法が流伝して誤った治療法がまかり通っていると書いたところ、松本良順が猛抗議。その内容が妥当と判断すると、「松本君の責めなかりせば(中略)その過ちを不朽に流さんとせり」と反省する柔軟さもあったようだ。

 そんな洪庵は五三歳になった文久二年(1862)、幕府に召し出され、奥医師から将軍家侍医、さらに西洋医学研究所の二代目頭取に任じられた。

 だが、名誉な話にもかかわらず、身分に相応しい家来を雇ったり、将軍の前に出ても礼を失しない衣服や道具を新調して大金がかかり、「大貧乏人」になったと嘆いている。

 また、彼は幼少の頃より体が弱く、奥勤めの心労が堪えたのか、翌年六月一〇日、昼寝から目覚めて激しく喀血し、窒息死。

 塾生の福沢諭吉が「二、三日前に先生のところへ行ってちゃんと様子を知っているのに急病とは何事」(『福翁自伝』)と驚いたほどだ。

 死因は一般的に肺結核とされるが、結核菌は当然、感染力が強く、感染症対策に尽くした洪庵が、そうした状況で職務を遂行し続けたとは考えづらく、肺がん説もある。

 いずれにせよ、「国のため道のため」が口癖だった輝かしい功績と比較し、腑に落ちない最期と言える。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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