■反乱の本質はあくまで上皇との対立だった!?

 こうした中、孝謙上皇は改ざんが発覚した翌一二日、勅を発して仲麻呂が子や孫と反逆した事実を告げ、太師(太政大臣)である彼が政府の官印を持って逃げたことから、太政官符(政府が発行する公文書)は無効であると宣言。

 こうして仲麻呂は反逆者にされたが、当初に起きた御璽と駅鈴の争奪戦で彼が勝ち、淳仁天皇の身柄を押さえていたら、結果は逆だったかもしれない。つまり、仲麻呂の一連の行動は結果的に反乱となったものの、あくまで本質は孝謙上皇と淳仁天皇や仲麻呂の政争と言うべきだろう。

 とはいえ、仲麻呂は結果的に反逆者となった。はたして彼は平城京(奈良)から逃亡したあと、どうなったのか。

 彼はまず、奈良から宇治を経て逢坂山(滋賀県大津市)を越え、琵琶湖岸に達し、瀬田川を渡って近江の国府に至ろうとした。だが、上皇方の兵が逢坂山越えよりも近い山道のルートで先回り。瀬田橋を焼いたことで仲麻呂の計画は狂い、琵琶湖西岸を通って越前の国府(福井県越前市)を目指した。息子の辛加知が越前の国守だったためだが、またしても上皇方が越前国府に兵を急派。辛加知を殺害し、国府を押さえた。

 さらに、仲麻呂はまたしても軍勢に行く手を阻まれ、琵琶湖西岸の三尾崎(滋賀県高島市)で、都から追ってきた上皇軍と合戦になって敗れ、勝野の鬼江と呼ばれる琵琶湖の入江(同市乙女ヶ池)で湖水に逃れたものの、惨殺された。一方、淳仁天皇も反乱の責めを問われ、その地位を廃されて淡路に流された。

 こうして孝謙上皇は称徳天皇として重祚し、翌天平宝神護元年(765)、道鏡は太政大臣禅師となったのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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