「応仁の乱」約70年前に大規模合戦明徳の乱「京都焦土化回避」の理由の画像
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 京都では「応仁の乱(1467~1477年)」が勃発する七〇余年前、三代将軍である足利義満の時代にも大規模な合戦があった。それが室町時代を代表する“反乱”の「明徳の乱」で、八代将軍である足利義政の時代に京都全域を焼き尽くした応仁の乱とは対照的に、市中にそこまで大きな戦禍の爪痕が残ることはなかった。はたして、なぜだろうか――。

 室町幕府は南北朝の争乱とともに幕を開け、初代将軍の足利尊氏が軍功のあった武士らに大盤振る舞いし、諸国の守護職を与え続けた。当然、その政策を受け継ぐ二代将軍義詮は、南朝に寝返っていた山名時氏が当時、幕府管領の斯波義将の説得で帰参した際、五ヶ国(因幡、伯耆、丹後、丹波、美みまさか作)の守護職をそのまま安堵せざるをえず、その数は一時、十二ヶ国にも拡大。幕府の裏切り者がここまで厚遇されれば、周囲に示しがつかない反面、義詮の時代はまだ争乱が続いており、寝返られることを防ぐために、どうしても守護を厚遇せざるをえなかった。

 だが、三代将軍義満の時代に南朝がジリ貧となったことから、ようやく二代にわたる政策を見直す好機が訪れる。義満はまず、美濃、尾張、伊勢の三ヶ国の守護家である土岐一族に狙いを定めると、幕府創業の功労者だった土岐頼康が七〇歳で死去したのち、内紛を起こさせる作戦を実行。惣領を継いだ頼康の養子である土岐康行に、美濃と伊勢の守護職継承を許す一方で、その弟である満貞に尾張の守護職を与えた。

 すると、義満の思惑通り康行はこの幕府の措置に不満を抱き、まもなくして美濃と尾張で内乱が発生。義満は康応元年(1389)に兵を送って康行を破り、その守護職を没収(土岐康行の乱)し、土岐の惣領家はその後、美濃一国に封じ込められたことで勢力が減退した。

 こうした中、義満は続いて、当時は十一ヶ国の守護職を手にしていた山名一族にも同様の手法で迫った。まず、前述の時氏に続いて、その嫡男である師義が死去すると、その子供らが当時、まだ若年であるという理由から弟である時義が跡を継ぎ、彼は次の惣領に亡き兄の次男である氏幸を指名。これがやがて一族の内紛を招き、氏幸の弟である満幸が後継指名を受けた兄に加え、時義と時熈父子を恨んでいることを義満は喝破した。

 義満はこのあたり、複雑な人間関係の本質を見抜く能力に長けていたようで、満幸は次第にその手のひらで転がされるようになる。義満はまず、不満を抱く満幸とその舅である氏清に、時熈と氏幸を討たせると、この二人を翌年に赦免。当然、満幸からしたら「話が違う」となるが、さらに彼は出雲国にあった仙洞領(上皇領)を横領したとの理由で京から追放されてしまう。

 むろん、義満は初めからそのつもりで、彼に山名一族の勢力を削ぐ手伝いをさせられたことに気づいた満幸は、横領の一件で恨みをさらに募らせ、舅の氏清を誘って挙兵。内紛を利用して山名一族に叛旗を翻させるという義満の狙い通りとなった。

 とはいえ、満幸はともかく、時氏の子で丹波と和泉の守護だった氏清は歴戦の勇者。彼が和泉から、さらに、満幸は自身が守護の丹後からそれぞれ軍勢を率いて京を目指し、ここで義満を南北から挟み討ちにする戦術を採った。

 一方、義満は南北の敵に対して同時に軍勢を差し向ければ、兵力が分散しかねないことから、もともと平安京の内裏跡で空き地だった内野と呼ばれる堀川の西に布陣。対する山名方は、幕府軍が東山や比叡山辺りの要害に陣を敷くとみていただけに、義満の戦術は意外だったようだ。

 山名一族の討伐は義満にすれば、幕府の威信が懸かるだけに、要害を盾に反乱軍の攻勢をしのぐ戦術は採りづらかったのだろう。『明徳紀』によると、義満は内野を囲むように幕府軍を配置し、その四囲を諸将に守らせ、一方が破られても、侵入してきた敵を四方から取り囲んで殲滅しようとした。

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