■京都の街に大きな被害がなかった理由とは
明徳二年(1391)の暮れも押し詰まった十二月三〇日早朝、南から京の二条大宮に侵入した氏清の軍勢がまず、幕府方の大内義弘軍と衝突して戦いがスタート。緒戦は猛将の誉れ高い義弘の指揮によって幕府軍が勝利し、彼は『明徳紀』によると、わざわざ騎馬武者を下馬させ、盾を前に密集させて弓矢で敵を防ぐ作戦を採ったという。
一方、西側(丹波口方面)から攻め入った山名満幸の軍勢には、細川、畠山、赤松など有力守護勢に加え、義満の馬廻り勢(親衛隊)が加わり、激戦となった。この合戦では大内義弘の奮戦もさることながら、山名勢は南北から幕府軍を挟み討ちにするチャンスがあったにもかかわらず、満幸の軍勢は「西国勢にて(京周辺の地理に)無案内なりしによりて、その辺りの深田をも知らず、知らずうちこみて」(『明徳紀』)とあるように、進軍が遅れてしまったという。結果、氏清は討ち死にして満幸は逃走。のちに京の旧臣宅で侍所所司京極高詮に誅された。
十一ヶ国の守護だった山名一族の勢力はこうして大いに削がれ、うち八ヶ国の守護職がその後、他家に渡った。
では、京を舞台にした合戦が街に大きな爪痕を残さなかった理由はなんだったのか。もちろん、戦いが長期化しなかったことが最大の要因である一方、義満が幕府軍を配置した内野の周辺が当時、京都市街から外れていたことも大きかった。要は幕府軍にそれだけ、京の中心部を守ろうとする意思があったのだろう。
跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。