鎌倉幕府執権北条時政が加担した将軍暗殺計画の裏に「後妻の影」!の画像
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 伊豆国(静岡県)の豪族に過ぎなかった北条氏が事実上、鎌倉幕府を支配することができた要因は、北条時政の長女である政子が当時、伊豆に流されていた源氏の棟梁・源頼朝の妻となり、一族として苦難を共にしたことに尽きる。

 だが、初代将軍の頼朝が建久一〇年(1199)一月に死去したあとに幕政を担った時政は元久二年(1205)閏七月、息子である義時に政界を追われた。はたして何があったのか――。

 時政らが、鎌倉幕府の精神的な支柱だった頼朝が死去したあと、集団指導体制に乗り出した辺りから話を始めたい。当時、幕府の大きな役割は御家人の土地を巡る紛争の解決で、時政は頼朝の死から三ケ月後に政子と謀り、幕府に対して提起された訴訟はすべて、幹部一三名による合議で採決すると決定。再来年のNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のタイトルにもある通り、その顔触れは時政と義時の父子を含め、比企能員、安達盛長、和田義盛、梶原景時、三浦義澄、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、足立遠元、八田知家幕府開創の功臣と頼朝の側近を務めた事務官僚ばかりだった。

 こうした中、功臣のうち、御家人に嫌われていた梶原がまず追討され、次いで高齢だった三浦と安達が死去。抜きん出るようになった時政父子にとっては、次第に比企が目障りとなった。その彼は頼朝の乳母だった比企尼の甥であり、娘である若狭局が二代将軍の頼家の妻だったことから、初代将軍の舅だった時政にすれば、是が非でも排除しなければならない存在だった。

 すると、時政は頼家の病に乗じて謀略を巡らせ、建仁三年(1203)九月、仏像供養を口実に彼を私邸に招いた。むろん、比企の息子らは反対。だが、彼は時政の謀略に引っ掛かって殺害されてしまった。そのことから一族は兵を挙げたものの、政子の弟である義時ら御家人に討たれた(比企の乱)。

 こうして一三人の幹部のうち、時政の最大のライバルだった比企を葬り去ったことで、彼は好機とばかりに政子と謀り、彼女の子であり比企能員の娘婿むこでもある頼家を出家させ、その弟である実朝を三代将軍に据えて、自身は執権の職に就いたとされる。

 こうした中、頼家は翌元久元年(1204)七月に伊豆の修善寺で殺害され、わずか一二歳の将軍実朝を擁した時政と政子、そして、義時の三人の足並みに乱れはないと思われた。

 だが、一三人の一人だった大江を抱き込んでライバルらしき勢力がいなくなり、北条一族が幕府の権力を掌握するという目的が達成されたことで、三人の思惑が次第にすれ違うようになった。特に時政は当時、六六歳の高齢にもかかわらず、隠居する気配がなく、四二歳の働き盛りだった息子の義時はフラストレーションが溜まっていたのだろう。

 実際、すでに比企一族が滅んだ頃から対立の兆しがあり、その種を蒔いたのが他ならぬ時政の後妻である牧御方だった。そもそも彼女は勝気で驕慢な性格とされるように、継娘の政子とそりが合わなかった。

 こうした中、かつて頼朝に重用され、比企の乱でも手柄を立てた牧御方の娘婿である平賀朝雅が波乱を巻き起こす。というのも、彼が源氏一族だったことから、実朝がいなくなれば、自身が四代将軍に就く可能性があったためだ。

 とはいえ、時政、牧御方、朝雅の三人と政子と義時の対立がむろん、一気に先鋭化したわけではない。実際、元久二年(1205)六月、時政と朝雅が有力御家人だった畠山重忠の追討を企てたとき、その大将に任じられた義時は標的と昵懇の間柄だったとされながらも父に従っている。

 そもそもこの追討計画は京都守護として上洛していた朝雅が、重忠の長男である重保と酒席で口論となったことが引き金。実際、武蔵国を支配しようとする時政が、武蔵国留守所惣検校職だった重忠の排除を狙ったものだったとされる。

 だが、時政と義時の軋轢はその後、牧御方が朝雅を四代将軍とするために実朝を殺害しようとしたことから決定的となった。

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