■政子らが仕掛けた罠にまんまとはめられた!?

『保暦間記』によると、時政もこの企てを知らないはずはなかった反面、「耄碌したせいか」、加担したとされる。

 ところが、この謀略は露見し、政子らは元久二年閏七月二九日、御家人の結城朝とも光みつ、長沼宗政、三浦義村らを時政邸に派遣し、その場にいた実朝の身柄を義時邸に移すことに成功。時政も御家人を集めようとしたものの、彼らは一様に義時邸に馳せ参じた。

 こうして時政が出家し、翌日に伊豆の北条の地に身を引いたことで、政子と義時は朝雅を追討するために軍勢を京に進発させ、二六日に討ち取った。

 これは時政らが重忠を葬り去って約二ヶ月後の事件で、彼はこうして失脚。はたして時政は前述の『保暦間記』にもあった通り、耄碌して悪妻の口車に乗り、将軍暗殺を企んだのだろうか。

 むろん、陰謀が実際に存在し、時政が加担したことも事実とみられる一方で、政子と義時の陣営の迅速な対応から考えて、この二人が仕掛けた罠にはまってしまった印象は否めない。

 義時はその後、前述の一三人の一人である和田義盛を討ち、政所に侍所の別当を兼ね、執権職が正式に成立。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主役はこの義時で、彼こそが北条執権政治の事実上の始祖となったのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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