平将門と藤原純友が同時テロ謀議!承平天慶の乱「比叡山の約束」伝説の画像
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 平安時代の半ばに東西で、ほぼ同時に反乱(承平天慶の乱)が起きた。東国で平将門が自らを新皇と称する一方、西国で藤原純友が海賊を率いて暴れ回ったのだ。『将門純友東西軍記』には承平六年(936)八月一九日について、こんな記述がある。「相馬将門、藤原純友両人、比叡山に登り、平安城を見下ろし、互いに逆臣のことを相約す。本意を遂ぐるにおいては、将門は王孫となれば帝王となるべし、純友は藤原氏なれば関白とならんと約し、終わりて帰洛し、その後両人相ともに国に帰る」

 これは反乱が成功した暁には将門が天皇として、一方の純友が関白として国を治めようと比叡山に登って誓い合ったという話だ。はたして二人は本当に、東西で示し合わせて反乱を起こしたのか。今回は後者の生涯と反乱の歴史を紐解きつつ、その真相に迫りたい。

 通説では、藤原純友は伊予大洲の豪族だった高橋一族に生まれ、伊予守だった藤原良範の養子に迎え入れられて、のちに伊予国の「掾(国司のナンバー三)」に任じられたとされるが、『尊卑分脈』に「良範-純友」とあるように、実際は実子だったとされるようになった。その実父は摂政や関白を輩出した藤原北家の出身で、純友は確かに『将門純友東西軍記』にある通り、関白になることができる家柄を誇り、太政大臣の藤原忠平と親戚関係だった。

 だが、『尊卑分脈』に「西海道賊主、従五位下、伊予掾」と注記されている通り、もともとは中央貴族の子弟だったものの、中央では出世が見込めず、伊予国に掾として赴き、そのまま土着。伊予の日振島を拠点にやがて、海賊のボスになったと理解されるようになった。

 こうした中、純友は掾を退いたあとも伊予に残って勢力を伸ばし、承平六年に海賊追捕使だった紀淑人との配下として歴史に登場。当時の海賊は中央や地方政府に不満を抱く現地の富農や豪族らで、純友は掾だった頃から人脈を広げ、彼らを説得して投降させたとみられるが、その後になぜか自らそのボスとなり、瀬戸内海の沿岸を荒らし回るようになった。

 いったい何があったのか。まず、天慶二年(939)一二月二六日に起きた摂津須岐駅(西宮市)襲撃事件に注目したい。これは純友の配下だった藤原文元らが同駅で、備前国の「介(国司の二等官)」だった藤原子高らを襲撃した事件。文元は備前国及び、周辺に土着した中級官人とみられ、いわば純友と同じ立場だが、『純友追討記』にはその「郎党」と書かれ、のちに海賊として中央政府に討たれた。

 したがって、純友は伊予以外の瀬戸内海の沿岸各地に、文元のように志を同じくする中級官人(彼らも地元の海賊を組織)のネットワークを築き、そもそも海賊集団を束ねた大ボスだったと言うことができる。

 とはいえ、背景に中央政府に対する反乱の意図があったかは不明だ。

 承平天慶の乱は将門が領地争いから伯父の国香を殺害して、その火蓋が切られる中、備前国では子高と文元がなんらかの理由で対立。純友の乱もこうして配下の利権争いに介入したことから始まり、子高は文元らの襲撃に応戦したが、あえなく降伏して捕らえられた。

 こうした中、相次いで国府を襲った将門は同じ頃、関東で新皇を自称。確かにこの動きに純友が合わせたようにも映る。

 また、前述の須岐駅襲撃事件前、純友が海賊集団を率いて「巨海(東シナ海か?)」に乗り出し、自身を京に召喚する官符が各地で下されたことから、次第に反政府的な活動を行うようになったことは事実だろう。

 とはいえ、情報伝達のスピードが今とは比較にならない当時、東西で同時に事が起きたとは必ずしも言い切れない。こうした中、将門がかつて家人として仕えた藤原忠平は天慶三年(940)正月、小野好古を追捕使に任じて進発させたが、政府はほぼ同時に純友に従五位下の官位を授けた。平将門が関東で反乱していたときだけに、純友だけでも懐柔しておこうとしたのだろう。

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