■政府軍に捕らえられてそのまま獄死を遂げた

 当然、これが一定の効果をもたらしたようで、この年の前半は純友に大きな動きは見られず、この間に将門が討たれたことで、関東の反乱は終息。将門の討ち死をいつ、純友が知ったのかは分からないものの、政府はこうした事態を受け、本気で西国の海賊退治に乗り出し、六月に「純友暴悪士卒」の追捕を決定。

 純友は瀬戸内各地で海賊行為を活発化させたが、すでに遅かった。むろん、将門の乱がこんなにも早く平定されるとは思わなかったのか。
 天慶三年八月から翌年六月までの彼の動きを『純友追討記』で見ると、讃岐を襲った純友軍は次に阿波の国府を焼き、官物などを略奪。小野好古を長官とする政府軍は二〇〇余艘の船で、純友の本拠である伊予を目指した。

 迎え撃つ純友軍の船は一五〇〇艘。だが、その次将である藤原恒利が裏切り、海賊の拠点や隠れ家などを政府軍側に密告。内部情報を得た政府軍は純友軍を破り、海賊は陸の道も抑えられたことから散り散りになって海上に浮かぶしかなく、一路、九州の大宰府に向かった。

 その彼らは大宰府に火を放ち、略奪行為に走ったが、一方の政府軍は陸路と海路から同地に進み、博多浦で合戦がスタート。結果、政府軍が勝ち、純友は船で伊予に逃げ帰ったが、捕らえられて獄死したという。

 さて、純友の反乱は東西の連携が取れずに失敗したが、冒頭で触れた比叡山のシーンははたして事実か。

 将門が上洛したのはこの二ヶ月後で、当時、純友は伊予にいたため、事実とは言えない。

 とはいえ、『将門純友東西軍記』が書かれたとみられる室町時代、同時反乱説が成立していたことは確か。

 二人とも反逆人でありながら、それだけ後世の人の期待値が高かった証と言えるだろう。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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