平安時代の“ゴーストバスター”!“陰陽師”安倍晴明「伝説の真贋」の画像
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 前号で取り上げた紫式部と同じ時代を生き、彼女が女官として仕えた中宮彰子の父である藤原道長と密接に関わった有名な人物の一人が日本史上、最高の「陰陽師」と言われている安倍晴明だ。彼は小説やドラマ、映画に多く登場し、式神(陰陽師が使う鬼神)を自在に操り、「臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前」「急急如律令」などの呪文を唱えて悪霊を退治。平安時代の“ゴーストバスター”として描かれることが多い。

 その晴明は同時代末に成立した説話集『今昔物語集』によれば、賀茂忠行という陰陽師の弟子となり、幼少時より才を発揮したとされる。たとえば、師匠の外出の供をし、忠行が乗る牛車の後ろに従っていた、ある夜のことだ。忠行は中で寝入って気づかなかったが、供の中では晴明にだけ、牛車に向かってくる鬼の姿が見えた。驚いた彼が師匠を起こして、そのことを告げると、目を覚ました忠行は鬼を確認し、術で自分たちの姿を隠して無事に通過。彼は以来、晴明をそれまで以上にそばに置くようになったという。

 また、鎌倉時代初めの説話集『宇治拾遺物語』には、まるで魔法使いのような晴明が登場する。彼が僧に「式神で人を殺すことができるか」と聞かれ、「たやすくは殺せない。虫などは少しの術で殺せるが、無益な殺生をしたくない」と応えると、庭に五、六匹の蛙が現れた。僧がそこで、「では、あの一匹を殺してみせてください」と言ったことから、晴明は「無益なことだが、私を試そうというのであるからおみせしましょう」と返し、草の葉を摘み取って蛙の上に覆い被せると、ぺちゃんこになって息絶え、これを見ていた者は震え上がったという。

 一方、鎌倉時代初めの『古今著聞集』では、前述の藤原道長の命を救った英雄として描かれている。道長が物忌み(飲食や言行などを一定期間、慎んで心身を清めること)中だったときのことだ。瓜が献じられたことから不審に思い、晴明に占わせると、彼はうち一つが毒瓜であると看破。僧侶に加持祈祷させると、瓜が動き出し、医師が二ヶ所に針を刺したら止まり、武者が刀で割ると、中で蛇がとぐろを巻き、両目に針が刺さっていたという。

 むろん、以上はすべて説話。ただ、晴明が生存中、陰陽師として、それだけ名を挙げたからこそ、こうした伝説が生まれたとも言え、江戸時代になると、彼の話は一層、誇張され、その母は信太の森(大阪府和泉市)の狐になった。

 だが、晴明はこれだけ多くの伝説を残しながら、確かな史料から確認することができる履歴は決して多くない。のちに晴明の末裔は土御門家を称することになり、その記録によると、彼は寛弘二年(1005)に他界。系図に「享年八五」とあることから延喜二一年(921)生まれとなる。父は安倍益材(先祖は、かぐや姫に求婚した右大臣阿部御主人のモデルとされる)というが、確証はない。

 当時は陰陽師といえば、『今昔物語集』に登場する前述の賀茂忠行と、その子である保憲が著名だった。当然、晴明が陰陽師の技術を習うには、賀茂父子に教えを乞う必要があり、説話通り、その弟子だったことは確かだろう。

 ただ、陰陽師デビューがいつかは分からず、延喜二一年生まれとすると、五二歳の頃に「天文博士」となり、正暦五年(994)頃まで、その職にあったことになるが、そもそも陰陽師とは何か。歴史学者である繁田信一氏の『陰陽師』によれば、朝廷には陰陽寮という組織があり、陰陽部門と暦部門、天文部門などで構成され、狭義の意味の陰陽師は国家的な災害などについて卜占を行う官人を指した。暦の作成などを担う暦博士や天体観測、気象観測などを行う天文博士も、平安時代半ばから卜占の技術を持つ者が就くようになり、陰陽寮に所属する官人はすべて、「陰陽師」と呼ばれるようになったという。ちなみにその後、安倍家(土御門家)は陰陽道の家として、師匠筋に当たる賀茂家とともに二流を形成し、天文道は前者に、暦道は後者に住み分けされた。

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