■懸命に奮闘したものの平凡な資質で苦労した

 ところが、北朝の年号の延文三年(1358)に尊氏が死去し、義詮は二九歳で二代将軍になると、以降は意外にも奮闘したと言える。

 その後も康安元年(1361)に南朝方に京を占拠され、再び、天皇を奉じて近江に逃走。だが、南朝方はもはや、つき従う武士もおらずに、ここを引き揚げたことで、義詮は難なく京に戻ることができた。

 また、幕府の重鎮らの内訌などもあり、決して安定した政権とはいえなかったものの、貞治二年(1363)には、悩まされてきた周防長門の大内弘世が、また、丹波など五ヶ国に勢力を及ぼす山名時氏が、それぞれ義詮に降った。

 義詮はこうして翌春、京都東山の常在光院で花見を楽しみ、尊氏の七回忌法要を盛大に催した。

 こうした中、彼はこの三年半後の同六年(1367)一二月、三八歳の若さでこの世を去った。年齢からして、幕府草創期の苦労があったとしか思えない。実際、英邁ではなかったものの、凡愚でもない。いってしまえば、極めて平凡な武将が精いっぱい幕府の安定を願って生きてきたからこそ、苦労が絶えなかったのだろう。

 そのため、前述の『鎌倉公方記』は彼の一面だけを捉えたものと評価することもでき、義詮が亡くなった一四世紀後半ともなると、内乱が四〇年にも及び、終息の気配が見え始めていた。

 よって、この初代と二代の苦労を下敷きに、義詮の嫡男である義満が室町第(花の御所)を造営し、南北朝の争乱はついに終わりを迎えたのだった。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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