■頼朝が挙兵した動機は有綱の追討にあった!?

 しかし、清盛はそれでも警戒を緩めない。頼政が宇治で敗死した際、ともに討ち死にした嫡男の仲綱の子である有綱が目代として伊豆に在国していたためだ。

 そもそも伊豆は頼政が知行国主に、仲綱が国守に任じられた地盤ともいえる土地で、清盛は彼らの残党を警戒していたのである。

 九条兼実(のちの関白)の日記である『玉ぎょく葉よう』には、「(清盛が)仲綱の息(子息)追討のために武士等を遣わす」とあり、相模国の豪族だった大庭景親が清盛から有綱追討の任を与えられ、この知らせが六月一九日、頼朝の元に届いたと考えられる。

 というのも、『吾妻鏡』によると、頼朝の乳母の妹を母に持つ三善康信(のちの鎌倉幕府の問注所執事で、朝廷の官僚)の使者が下向し、北条館で彼と対面。使者は以仁王と頼政が敗死したことを伝え、「君(あなた)は源氏の正統(嫡流)である。ここは危険であるから奥州へ逃げたほうがよい」という康信の言葉を伝えた。

 頼朝が四月二七日に令旨を受け取ったという冒頭の話が『吾妻鏡』の捏造なら、このときに以仁王の令旨が届いていたかどうかは微妙なところ。むろん、いつかは届くとしても、頼朝挙兵の動機はこの有綱追討にあったといえよう。

 つまり、それまでノーマークだった頼朝は、自身が清盛の視界に入ったことから有綱とともに追討されかねず、それならば、いっそ――と半ば、やけっぱちに挙兵の準備を始めたのではないだろうか。

 六月二七日には、京で大番役に就いていた三浦義澄(相模の豪族・三浦義明の次男)と千葉胤頼(下総の豪族・常胤の六男)が関東下向の途次、北条に立ち寄って頼朝と密談している。

 この両一族が後に頼朝を支えたことを考えれば、密談から挙兵までが一ヶ月半と妥当な期間であることから、空白の謎は消える。

 窮鼠猫を噛む――それこそが頼朝挙兵の真相ではないだろうか。

跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

あわせて読む:
・幕末最大の悲劇「水戸天狗党の乱」武田耕雲斎処刑の裏に徳川慶喜!
・嵐“極エモ”新CMでもついつい思い出す「3つの屈辱黒歴史」
・日テレの女神様・水卜麻美アナ『ボンビーガール』黒歴史化が止まらない!!
・日本初の実測地図を作った偉人!伊能忠敬「全国測量17年間」の壮絶

  1. 1
  2. 2