■明治安田生命やみずほ銀行の設立にも関与!

 翌一一月一日の朝、龍馬が泊まる旅館「莨屋」を公正が訪ね、その日の深夜零時頃まで話し合った。その間の話題は新政府の財政についてだった。

 そして龍馬は帰京した後、一〇日に前述した手紙を春嶽側近の福井藩士へ送る。福井でほぼ丸一日、公正と新政府の財政について語り合った龍馬は、公正が新政府になくてはならない逸材だと確信し、岩倉具視に彼を推薦したのだ。

 つまり、龍馬の越前入りのもう一つの目的が三岡八郎(由利公正)という人物を見極めるためだったといえる。

 こうして龍馬の眼鏡にかなった公正は、冒頭の「五箇条の御誓文」の起草や太政官札の発行の他、新政府軍の軍費や天皇の御東幸(東京遷都)費用調達などに奔走。

 そして明治四年(1871)一一月には初代東京府知事に就き、東京を日本の首都に相応しい近代都市とするために力を尽くした。

 特に銀座界隈はまだ江戸の頃のままだったが、公正は郷里の福井から土蔵引きの職人を呼び、道沿いの商店の土蔵を道の後ろに引かせて道路を拡幅し、煉瓦敷きの歩道を整備。やがて通りには瓦斯灯がともり、今に繋がる銀座中央通りを完成させている。

 こうして龍馬に見出された男は岩倉遣欧使節団の一員として欧米諸国を視察した後、板垣退助らと民撰議院(国民から選挙された議員によって構成される議院)設立の建議を行い、有隣生命保険(現・明治安田生命)や日本興業銀行(現・みずほ銀行)の設立にも関わり、明治四二年(一九〇九)に、この世を去った。享年八一。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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