江戸幕府“第九代将軍”徳川家重“女説”の裏に「脳性麻痺」の疑いの画像
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 江戸幕府九代将軍は“女”だった――こう聞くと、多くの人は耳を疑うだろう。だが、この説には一定の根拠がある。昭和三三年(1958)、東京都港区芝の増上寺将軍廟の改修工事に伴う遺骨調査が始まり、発掘された徳川家重の埋葬方法や遺体に女性と疑われる特徴があったのだ。

 まず、その埋葬方法からして怪しい。歴代将軍の中で家重だけが女性の遺骸の納め方である正座の姿勢(膝を崩して両手は前に添えてあった)で、身長は当時の男性の平均身長よりも女性のそれに近い一五六・三センチ。骨も全般的に細く、中でも性別の差が出やすい恥骨は女性的な特徴を備えていたという(『九代将軍は女だった! 平成になって覆された江戸の歴史』参照/講談社/古川愛哲)。

 一方、渦中の将軍は通説では暗君とされ、女性説もその独特なパーソナリティに由来している。家重の父は、かの有名な「暴れん坊将軍」こと徳川吉宗。

 家重は正徳元年(1711)、吉宗が紀州藩主だった頃に生まれ、「御多病にて御言葉さわやかならざりし故、近臣の臣といえども聴きとり奉ること難し」(『徳川実紀』)とされる。家重はただでさえ病弱なうえ、言語に不明瞭なところがあり、近臣でさえ、その言葉を聞き取ることができなかったというのだ。ところが、吉宗に世子と定められ、延享二年(1745)に三五歳で将軍職を継承する。

 以来、十五年にわたって無難にこなすが、それはひとえに、ともに小姓から成り上がった大岡忠光や田沼意次ら側近に依存していたためとされる。特に忠光は家重が将軍に就任したあと、若年寄や側用人に異例の昇進を遂げる。武州岩槻で二万三〇〇〇石を賜って大名となり、家重の言葉を聞き取ることができたために重用されたといわれるが、将軍と日常的に会話をすることができた者は彼くらいしかいなかったのだろう。

 だからか、家重は引きこもりがちで、その人物像も秘密のベールに包まれた。そのため、たとえ男装していても声や顔立ちから女性と発覚することを防ぐために忠光以外には会わなかったなどと憶測を呼び、前述の遺骨調査の結果もあって女性説に発展したようだ。

 しかも、家重は整髪の際に油を使わずに髪はいつも乱れ、髭も剃らないことが多かった。一方で小便が極端に近かったらしく、“小便公方”とあだ名され、「アンポンタン」(阿呆で愚か者という意味)と陰口を叩かれた。

 実際、『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮社)の著者で医師の篠田達明氏は遺骨調査の結果や肖像画から、その主な原因をアトテーゼ型の脳性麻痺とする。その症状は上半身に出やすく、言語障害もその一つ。遺体調査で家重の奥歯が著しく摩耗していたことが判明し、これも同種の脳性麻痺の特徴といい、絶えず歯ぎしりした結果、奥歯がすり減ったためとみられる。また、脳性麻痺の場合、尿路系のコントロールが難しくなるケースもあり、小便が近かったことも同じ理由のようだ。

 だが、脳性麻痺で運動神経に異常をきたしても、知性は正常な場合が多く、篠田氏は家重を「知的にすぐれた脳性麻痺者」と分析している。事実、あまり家重を褒めることのない『徳川実紀』にも「ご威儀が厳格」とある。髪と髭がボサボサでも、朝会の日に侍臣らがとり繕いさえすれば、威容は優れて気高く見え、群臣は皆、畏服したという。

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