■幕末の伝説的な剣士は坂本龍馬の“婚約者”!?
三人目の千葉佐那(さな子)も代表的な女性剣士の一人である。彼女は北辰一刀流桶町千都の山国神社神官)の日記に兄妹のことが記されている。
山国隊を饗応した重太郎の「令妹三人」の一人が佐那で、彼女は新徴組の中沢琴が男を寄せつけず、男装して戊辰戦争に従軍したのに対し、出征する隊士らに酌をして回ったことが分かる。とはいえ、その剣の腕前はかなりのものだ。
明治二六年(1893)に佐那が新聞の取材を受けたインタビュー記事には「龍馬と結納を交わした」という爆弾発言が載り、さらには、武道堪能で免許皆伝の腕前だったという。
むろん、これはあくまでも彼女の一方的主張。それでも、彼女の証言を客観的に証明する一級史料がある。
彼女は安政三年(1856)頃、広尾の宇和島藩邸に奉公に上がり、姫君の武道指南を務めた。その際に幕末の「賢侯」の一人だった宇和島藩の前藩主・伊達宗城が「さなと申す者の剣術・槍・薙刀などの技をご覧あり」(『稿本藍山公記』)としたうえで、「女子にては達者なり」(『同』)と、たいそう感心したという。
しかも、宗城は日記(『御手留日記』)にわざわざ、「男子も弱き者は負けそう也」と、佐那が男顔負けの腕前だったと記している。
こうして彼の日記にしばしば彼女が登場する理由の一つは、その容姿にあったようだ。宗城は佐那の器量について、藩邸の奥に仕える者の中でも「一番よろしく」と褒め「薙刀もよく使い、大膳(世子の伊達宗徳)も負け候くらい。さてさて珍しき人なり」(前掲書)とまで書いている。
美人で武道の達人という女性を珍しく思ったのだろう。
維新後の彼女の消息を語る史料は乏しいが、生前に交遊があった自由民権家の小田切謙明の縁者の厄介になったことは事実。
また、京都府に出仕した重太郎とともに京に向かい、ここで灸治療を行ったところ評判を呼び、兄がこの世を去ったあとに東京に戻り、千住(足立区)で鍼灸院を開業したともいわれる。
そんな彼女は明治二九年(1896)、五九歳でこの世を去った。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。