「鬼滅の刃」的な大ヒットも!日本のシェイクスピアと呼ばれた近松門左衛門「波乱の青春時代」の画像
写真はイメージです

 今から約三〇〇年前、江戸時代に大坂の道頓堀戎橋南詰にあった人形浄瑠璃劇場の竹本座で『国性爺合戦』が初演された。

 同作は中国人の父と日本人の母を持つ主人公が、中国・明王朝の復興を目指すヒーローもので、実在の人物である鄭成功の生涯をモデルにしたフィクション。正徳五年(1715)一一月の初演以来、一七ヶ月という異例のロングランとなり、先頃に国内映画興行収入を塗り替えた『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』にも似た大ヒットを記録した。

 その作者は人形浄瑠璃の他、歌舞伎の脚本も手掛けた近松門左衛門。浮世草子の作者で小説家の井原西鶴や俳人の松尾芭蕉と並び称される元禄文化の担い手である。

 それだけに近松は数多くの伝説を残し、素戔嗚尊を主人公に作品を書いた際、これが不敬とされたことから投獄され、三年間の入牢中に『国性爺合戦』の構想を練ったところ、その才能に役人が驚嘆して彼の罪を許したとされる。

 彼には実際にキリシタン禁制下で、自身の作品(『傾城島原蛙合戦』)にあえて信徒を登場させるようなところがあった。

 むろん、本当に投獄されたかについては疑問もあるものの、著名な演劇学者だった故・河竹繁俊氏は自身の著書『近松門左衛門』で、伝説の根拠がそれなりにあったかもしれないと指摘。近松ははたして、どのようにして希代のヒットメーカーになったのだろうか――。

 彼は承応二年(1653)、越前藩士だった杉森信義の次男に生まれ、実名が杉森信盛だったことは系図からして信憑性が高い。

 だが、出生地は越前の他に出雲や三河、周防、肥前、近江などともされて謎だらけ。ただ、越前藩士の子である以上、同国内で生まれたと考えるのが妥当で、現在は福井市生まれで、三歳のときに父の転勤に伴い、吉江(福井県鯖江市)に移り住んだとされるようになった。

 その後、父が浪人となって京の都で慎ましく暮らし始めたことから近松もその生活を支えるために働きに出るようになり、辞世の詠草で「三槐九卿に仕え」と述べたように当時、朝廷の中でも官位の高い公卿の家に奉公に上がり、系図には「一条禅閣恵観公(一条昭良)に仕ふ」と記されている。

 ただ、奉公先は「正親町家に仕えていた(『翁草』)」「阿野家の雑掌だった(『茶話雑談』)」とされるように複数、候補があり、近松が阿野実藤の墨蹟(直筆の書)を所持していたことから後者に仕えたと見てよさそうだが、系図との整合性を考えれば、複数の公卿の家を渡り歩いたと見るべきかもしれない。

 一方、近松は近江国の三井寺(滋賀県大津市)の南にある近松寺に一時、遊学したともされ、これがその名の由来ともいわれるが、こちらについても諸説ある。

 いずれにしても彼が公卿の家を転々とするうちに有職故実を学びつつ、古典の教養を身につけたことは間違いなく、一九歳の頃、俳句集の『宝蔵』に父の句とともに杉森信盛名義の「しら雲や はななき山の 恥かくし」の作品が掲載され、すでに当時、一流脚本家の片鱗を覗かせていた。

 また、公卿の家には当時、人形浄瑠璃の語り手である太夫らが出入りすることがあった。

 そうした影響からか、京の四条で浄瑠璃一座(宇治座)を旗揚げしていた太夫の宇治加賀掾の元に身を寄せ、ここに正式に近松門左衛門が誕生。

 彼はこうして二〇代の頃、宇治座で浄瑠璃作者として修業を積み、当時、一座が上演した演目の多くが自身の作品と考えられるものの、下積み時代ということもあってか、作者名が公表されることはなかった。

 一方、近松は当時、生活費を稼ぐために芝居小屋の都万太夫座(現・南座)で道具直しのアルバイトをする一方、堺の夷(戎)島で『徒然草』の講釈をしたという話も残る。

 そして、三一歳だった天和三年(1683)にようやく、近松門左衛門による事実上のデビュー作が上演された。

 それが鎌倉時代の仇討ちを題材に新風を取り入れた『世継曾我』で、二年後の貞享二年(1685)には、のちに浄瑠璃の代名詞(義太夫節)となる竹本義太夫のために『出世景清』を書き下ろし。

 前述の竹本座で上演されるや、大ヒットを記録したこともあり、二人の関係は以降、急速に深まり、近松は京都で竹本座に向けた作品を書くようになった。

  1. 1
  2. 2