■「曽根崎心中」の人気で劇場の経営が好転した
一方、近松はこの翌年から元禄年間にかけて、坂田藤十郎らと組んで歌舞伎の脚本にも力を入れ始め、傑作と言われる『傾城仏の原』などを発表。
元禄一〇年(1697)頃から再び人形浄瑠璃の作品を書くようになり、義太夫の評価が近松の作品を後ろ盾に急上昇した一方、竹本座の興行自体は歌舞伎人気に押され始めた。こうした中、大坂で“ある事件”が起きる。
北新地の遊女だったお初が醬油屋の手代・徳兵衛と心中したのだ。
すると、すでに当時、五一歳でベテランの域に達していた近松がすぐに筆を執り、竹本座は元禄一六年(1703)五月、有名な『曽根崎心中』を上演し、大入り満員の盛況となったことから経営が好転。
近松はこのヒットにより、大坂に移り住み、竹本座の座付作者の地位を得たが、その後に坂田藤十郎の他界を機に、歌舞伎については断筆した。
また、竹本座は正徳四年(1714)に義太夫が没すると、再び経営の危機に直面。それでもこの翌年に当時、六三歳の近松が書いた『国性爺合戦』のロングランにより、またしてもピンチを脱した。
こうして見ると、近松はまさに江戸時代のヒットメーカー。その後も『心中天の網島』など多くの名作を残し、享保九年(1724)に七二歳でこの世を去った。
生涯、実に九〇作余りの浄瑠璃と三〇作の歌舞伎の脚本を残した。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。