■謹慎中に“吉原通い”で検挙されて島流しに!
しかも、彼らは資俊だけではなく、六角越前守広治という桂昌院ゆかりの旗本(母が本庄家出身)にも菱屋の木幡という遊女を身請けさせ、一連の話を耳にした桂昌院が江戸町奉行の北条安房守氏平に「民部、朝湖(一蝶)という者らは、親類縁者に遊女狂いをさせる誠に宜しからぬ奴らだから、遠島にでもしてもらいたい」と言ったという。
むろん、遊女を身請けさせただけでは罪に問えない反面、そこは将軍の生母による直々の仰せ。奉行はそこで、(4)にある「先月より馬がもの言うと申し触れる者がいる」、つまり綱吉が制定した「生類憐みの令」を批判する者がいるとして彼らに罪をなすりつけ、入牢させたというのだ。
とはいえ、そもそも罪がでっち上げだったことから詮議に及ぶことはなく、彼らは結局、「病気養生」という名目で釈放された。
だが、これは今で言う“執行猶予”で、謹慎しなければいけなかったが、一蝶はその四年後、吉原に出かけた帰りに検挙され、入牢のうえ、ついに民部とともに島流しになった。その理由は「病気養生のために出牢を仰せつけたのに、遊郭へ行ったのはお上を軽んじる不届きな所行」というもの。
そんな一蝶は綱吉が死去し、宝永四年(1707)にその恩赦で再び江戸の地を踏むことができたというが、以降も吉原通いを続けたという。
ある意味、あっぱれな人生だったと言えるのではないか。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。