“平成の三四郎”こと、古賀稔彦さんが、3月24日、53歳の若さで亡くなった。昨年、がんの手術を受け、療養中だったという。
古賀さんは切れ味鋭い背負い投げを武器に、オリンピックに3度出場し、2つのメダルを獲得。中でも、金メダルを手にした92年のバルセロナ五輪では、今も語り継がれる名シーンが生まれた。男子柔道71キロ級決勝戦で勝利を収めた瞬間、古賀さんは畳の上で咆哮したのだ。
本誌は昨年12月7日、「レジェンド格闘家 ニッポン熱狂『世紀の一戦』」(1月11・18日合併号)という記事において、古賀さんに電話インタビューを行っていた。取材を担当した、フリーライターの布施鋼治氏は次のように語る。
「とにかく、すごく優しかったことが印象に残っています。実は、古賀さんには10年以上前にも取材をしましたが、その頃はまだ勝負の世界にいたピリピリ感が漂っていました。でも、12月に話したときは、こちらが準備した質問が必要ないほど、一つの問いを広げて自分から、どんどん話してくれた。今思うと、療養中の身なのに、あれだけ気遣いをしてくださった古賀さんの、器の大きさを感じます」
本誌のインタビューでは、「平成の三四郎」ならではの“至言”を、いくつも遺してくれていた。その一部をここに再掲載したい。
まず、古賀さんに「最も印象深い大会」を問うと、意外なことに金メダルの92年ではなく、88年のソウル五輪を挙げた。優勝候補と期待されながら、3回戦負けに終わった大会だった。
「あのとき、僕のコーチは中高時代の恩師である吉村和郎先生で、付き人は後輩の吉田秀彦だった。試合当日、2人と一緒になった際、思わず“試合をするのが怖いです”とつぶやいた記憶がある。(中略)案の定、大会後は戦犯扱いされたので、“僕が一番かわいそうな人間なのに、なぜ、こんな扱いを受けなければいけないんだ!?”と、大学の寮にこもりました(笑)」
だが、大きな挫折となったこの敗北が、古賀さんをさらに成長させた。