■火の手が自身に迫る中、校正作業をしていた!
羅山は家康の死後に一時、停滞した時期があったものの、三代将軍である家光の治世に再び、厚遇されるようになり、寛永七年(1630)、四八歳のときに幕府から土地(上野忍岡)と学校建設の資金として二〇〇両を賜り、家塾と孔子廟を建設。
孔子廟は孫の代に湯島に移されて現在も湯島聖堂(東京都文京区)として残る一方、家塾も同所に移されて昌平坂学問所となり、ここが寛政の改革(1787~1793年)で幕府直轄の学問所となったことで、朱子学は官学化された。
そして、江戸時代では唯一の“国立大学”と言える学問所の長官(大学頭)は林家で世襲され、羅山は明暦三年(1657)、七五歳でこの世を去るが、その最期もまた、実に彼らしかった。
というのもは同年正月、のちに明暦の大火と呼ばれる大惨事が江戸を襲来。『年譜』によると、羅山が神田の本宅を捨てて上野忍岡の別宅に避難する際、火の手が自身に迫る寸前まで『梁書』の一冊に朱入れ(校正)をしていたとされるからだ。
また、幕府から銅瓦葺きの頑丈な書庫を下賜されていた彼は避難後、ここが焼失したことを知り、そのショックから立ち直ることができずに亡くなったとされ、なんとも芝居じみた最期だった。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。