■源氏将軍滅亡の理由はまさに“内紛体質”!
ただ、これでも終わらないあたりが源源合戦の凄まじさを物語り、内部抗争がまたしても火を噴く。
というのは、義綱を追討した為義が、『愚管抄』にも記されるくらいに嫡男である義朝と険悪だったからだ。
実際、父と子はそれぞれ摂関家と鳥羽上皇と結び、政治路線の違いもあって、義朝が廃嫡となっていた可能性もある。
だからだろうか、「上総曹子」と呼ばれたように現在の千葉県で生まれたとされる彼は関東に活躍の場を求めて鎌倉に住むと、相模の豪族だった三浦氏らと縁戚関係を結んだ。
仁平三年(1153)には義朝が下野守に任じられて着々と勢力を伸ばしたことから為義は警戒したのか、自身の次男である義賢を関東に送り込んだ。
むろん、義賢が義朝に代わって、嫡男として扱われていた可能性もある。
こうした中、そんな彼は上野の多胡郡に居を構えると、武蔵に隠然たる勢力を誇った秩父重隆の婿となって同国比企郡に進出。
その武蔵には義朝の陣営が別のルートで進出を図ったことから、双方の利害が衝突し、久寿二年(1155)八月に当時、京に戻っていたその留守を預かる長男の義平が、叔父である義賢の大蔵館(埼玉県嵐山町)を襲って彼を殺害した(「大蔵合戦」)。
一連の流れが為義と義朝父子の代理戦争の結末で、二人の確執は保元の乱(1156年)で、それぞれ上皇方と天皇方として敵対したことから決定的となった。
なお、前述の義平に殺害された義賢の次男が義仲で、彼はいわゆる源平合戦である治承の内乱の渦中に一度は京を手中に収めたものの、頼朝の弟である義経の軍に敗れて滅亡する。
その義経も後にまた、兄から追討される運命を辿った。
鎌倉幕府の源氏将軍がわずか三代で滅んだ遠因には、お家騒動を繰り返す、こうした内紛体質が深く関係しているようにも映る。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。