NHK大河『鎌倉殿の13人』の根源ここにあり?源平合戦ならぬ「源源合戦」の壮絶の画像
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 紛争を処理する手段として武力が自然に用いられていた時代は、骨肉相食む争いが当たり前で、一族同士で、それこそ血みどろの戦いが繰り広げられたこともあった。

 その一例が源平合戦ならぬ、“源源合戦”。鎌倉幕府を開いた源頼朝が、弟の義経や従兄弟である義仲と闘争を繰り広げたことはあまりにも有名である一方、清和源氏は彼の高祖父である源義家の時代から、一族内で仁義なき主導権争いを繰り返してきた――。

 義家の父は前九年の役(1051年~1062年)を鎮めた清和源氏の棟梁である源頼義で、母が桓武平氏の嫡流である平直方の娘。

 彼は源平双方の血を継ぐプリンスとして誕生し、この戦いで武名を轟かせると、父の死後は武門の新たな統率者として期待されたが、奥州利権に目がくらんで後三年の役(1083年~1087年)を引き起こし、すぐ下の弟だった義綱に名望を奪われた。

 寛治五年(1091)には義家と義綱に軍事衝突の危険が高まり、双方の郎党が所領を巡って衝突したことから、京の都が両者一触即発の緊迫した空気に包まれ、結果的に両陣営は矛を納めたものの、兄弟喧嘩は弟に軍配。

 清和源氏は河内源氏ともいわれたようにもともと、河内国に荘園などの経済基盤を置き、義家に対する朝廷の評価が後三年の役で暴落していたこともあってか、彼はここを含めた五畿七道から兵を集めて入京させることを禁じられた。

 一方、義綱はすっかり信頼を失った兄に代わり、藤原摂関家に取り入って陸奥守に任じられると、出羽の賊徒を平らげた功績もあり、河内源氏の祖で自身の祖父である頼信以来の美濃守に就任。

 ただ、義綱を支持した関白の藤原師通が急死し、義家が白河上皇に擦り寄ったこともあり、その地位は揺るがずにこの内紛が次代に持ち越される一方、彼の晩年には弟の義光と四男の義国が常陸で合戦を演じる事態が勃発した。

 この“叔父と甥の争い”は義国が、父が前九年と後三年の役で地歩を固めた関東で自立する道を選んだところ、義光も同様の考えを抱いて利害が衝突したことが発端。

 義家はそのため、義国を都に召喚しなければならず、嘉承元年(1106)、失意のうちにこの世を去り、三男の義忠がやがて一族の棟梁を継いだ。

 ところが、その義忠が天仁二年(1109)二月三日に何者かに襲撃されて二日後に死亡する事件が起き、清和源氏一族である源重実がまず、容疑者に浮上。彼が過去に父を義家に追討されたことから、その地位を継いだ義忠を暗殺したとする怨恨説だ。

 だが、重実が検非違使(当時の首都警察)に身柄を拘束されたあと、かつて義家とトップの座を争った弟の義綱の三男である義明が突如、捜査線上に急浮上。いわば親同士の確執が引き継がれた形だ。

 その後、義忠の養子(義家の子という異説もある)である為義が大叔父(叔父に当たる可能性も)の追討を命じられたことから、義綱は息子らとともに近江の甲賀山中に逃れ、合戦の末に自害。

 一部は為義軍に投降し、兄弟の確執が世代を超えて陰惨な結末を迎えた一方、事件の裏にはもっと複雑な真相が隠されていたという見方もある。

 実際、南北朝時代に成立した諸家系図集である『尊卑分脈』によれば、義忠暗殺の真犯人は、義家の子である義国と、前述のように常陸で合戦を演じた叔父である義光とされている。

 さらに、この家系図集は暗殺の実行犯を鹿島冠か者じゃという人物としたうえで、彼が義光と弟の快誉(園城寺の僧)に口封じで生き埋めにされて消されたともしている。

 義忠暗殺の動機は、その叔父である義光が甥の棟梁就任を妬んだというもので、これが事実であれば、あまりに身勝手な話。

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