NHK大河『鎌倉殿の13人』はどう描く?執権・北条氏「血まみれ内部抗争」の画像
『鎌倉殿の13人』主演の小栗旬

 鎌倉幕府は源氏将軍が三代で途絶えたあと、関白である九条道家の三男で後に四代将軍となる九条頼経を京都から呼び寄せ、北条氏が執権として政策の運営を担った。

 だが、そんな北条氏もまた、源氏に負けず劣らず一族間で内紛を繰り返した。その流血の内部抗争の歴史は幕府の開創期にまで遡る――。

 北条氏の宗家は得宗家と呼ばれ、来年に放送が予定されるNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』の主人公である北条義時が祖。彼は鎌倉幕府を開いた源頼朝の仲介により、比企朝宗の娘である姫前を正室に迎え、この翌年に朝時をもうけた。

 だが、義時はもともと「江間小四郎」と称して宗家を継ぐ資格がなかったため、父である時政は義時の次男で自身の孫に当たる朝時を養子に迎えて嫡流に据えることを計画。実際、朝時が時政の屋敷だった鎌倉の名越邸を継承している一方、義時の長男で異母兄の泰時は『吾妻鏡』に江間姓で登場する。

 だが、義時はこうした父の考えに反発すると、姉である北条政子と組み、時政をなだめすかして比企氏を滅ぼしたとみられる一方、姫前を正室に迎えた際に生涯、離別しないことを頼朝に誓った起請文をあっさりと破棄。

 これは義時自身が宗家を継承するためのクーデターだったようで、その後に再び、源頼朝の正妻だった政子と結託して父を失脚させたことで、後ろ盾を失った息子の朝時は嫡流となることができず、庶流である名越氏の祖となった。

 だが、その名越氏は義時が事実上、乗っ取った宗家に反抗。朝時の嫡男だった光時の時代、四代将軍である前述の九条頼経も加わって宮騒動と呼ばれる事件が勃発した。

 頼経は二歳で鎌倉入りしたあと、頼朝の未亡人として政務を代行した政子が亡くなると、正式に征夷大将軍に就任。嫡男である頼嗣に将軍職を譲ったあとも隠然たる勢力を保ち、名越光時らとともに得宗家に対して批判的な姿勢を貫いた。

 当然、義時の曾孫で執権だった経時はそんな将軍を警戒。頼経を京都に送り返そうとしたものの、彼はその日取りが決まると、「陰陽道の悪日」に当たるとして先延ばしにするばかり。

 そうこうしているうちに経時は病に陥り、寛元四年(1246)三月に宗家の家督と執権の座を弟である時頼に譲ると、まもなく他界。

 当時、まだ二三歳で、将軍や名越氏と対立が続く最中の死とはいえ、暗殺などを裏づける証拠はないものの、その父の光時はこれに乗じて執権と宗家の座を奪おうとしたのだろうか、将軍を押し立てて軍事行動を起こした。ただ、経時の死後に執権となった弟の時頼の動きは実に素早く、彼は信頼できる者だけを集めて秘密会議を開くと、将軍御所に通じる若宮大路と小袋坂道、六むつら 浦道の三道を封鎖。

 将軍は兵らに駆けつけてもらうことができなくなったことから身動きが取れなくなり、光時の謀叛計画は未遂に終わると、彼は出家して一命こそ許されたものの、官職や所領を没収され、一方の頼経も京都に追放された。

 ただ、騒動はこれで終わらず、この得宗家と名越家の確執は時頼の後を継いだ嫡男の時宗の時代に持ち越される。

 その時宗には時輔という兄がいた。彼は側室の子だったことから、正室の子である時宗の風下に立たされ、一七歳で鎌倉を追われると、京都の六波羅南方探題に飛ばされたとされる。

 むろん、六波羅探題が幕府にとって重要な組織だったことから左遷とまでは言い切れないものの、時宗には、目障りな存在だっただろう。

 こうした中、空席だった北方探題にその後、北条庶子家の赤橋義宗が任命された。

 北方は南方よりも格上。得宗家の時輔は北条庶流の義宗の風下に立たされ、この兄弟間の確執に前述の宮騒動で処分された名越光時の弟である時章と教時が絡み、二月騒動が勃発。

 騒動の顛末は実に不可解極まるものだった。

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