■「二月騒動」に隠された執権時宗の黒い陰謀!

 文永九年(1272)二月一一日朝、得宗家の御内人らの軍勢が鎌倉にあった名越教時邸を襲撃し、居合わせた兄の時章とともに彼を討ち取った。

 ここまでは宮騒動と同様で、時宗が機先を制して時章らの謀叛計画を未然に防いだとも言える。

 ところが不思議なことに、彼らは誤って殺されたとされ、手を下した五人全員がその日のうちに斬首された。

 実は時章は弟の教時と違い、得宗家に従順な姿勢を示していたことから、刺客が誤って殺してしまった可能性も残される反面、時宗がこの機に兄弟を同時に葬り去ろうとし、得宗家の家臣に謀叛の疑いがあると偽って殺害を実行させた疑いはある。

 時章を殺したうえで、その討手を処罰してしまえば、もはや死人に口なし。そういうことではなかったろうか。

 むろん、命じられた側にすれば、まさに殺し損。時宗は実際、誤殺と公表しながらも時章の所領を没収している

 こうして時宗は自ら批判に晒されることなく、政敵である兄弟の排除に成功すると、庶兄の時輔を次のターゲットに選ぶ。

 時章兄弟が討たれたわずか四日後、鎌倉から京都に早馬が到着し、六波羅北方探題だった赤橋義宗の手勢が南方探題を襲って炎上させ、時輔も討たれたのだ。

 もはや、時宗が将来の禍根となる兄を殺させたとしか思えない。

 ただ、時宗は邪魔な者を非道な手段で粛清した極悪人にも映る反面、当時は蒙古(モンゴル軍)の脅威が日本に迫りつつある時代だったことを差し引かなければならないのではないか。

 空前の国難を前にある意味、恐怖政治による国内の引き締めが必要だったのだろう。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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