後北条氏を滅亡させた「最後の当主」北条氏直「秀吉に降伏の舞台裏」!の画像
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 戦国時代、長享の乱で上杉氏の勢力が弱体化した隙を突き、伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原城を奪い取って相模国に足場を築いて以降、北条氏は関東八か国(関八州)のほぼ全域にまで勢力を拡大した。

 その譜は北条氏綱-氏康-氏政と続いたものの、五代目の氏直で廃絶。関東支配は終焉を迎えた。その原因は、どこにあったのか。

 北条氏直は永禄五年(1562)生まれとする説が最も有力で、越後の長尾景虎(上杉謙信)がこの二年前、小田原城を包囲したことから上杉氏と抗争が本格化する中、幼少期を過ごした。

 父は氏政で、生母は通説によると、武田信玄の娘である黄梅院。

 北条氏は氏康の時代、甲斐の武田氏と駿河の今川氏と甲相駿三国軍事同盟を結び、当事者の武将三人には当時、いずれも適齢期の娘がいた。

 そのため、氏康の娘が義元の嫡男である氏真に、義元の娘が信玄の嫡男である義信に、信玄の娘がやはり氏康の嫡男である氏政に嫁いだことから、氏直は当然、その正室だった黄梅院の子と思われてきた。

 だが、氏直が生まれた際に本来、外祖父となる信玄に安産祈願をした形跡がないことから、黄梅院が生母であるとする通説に疑念が発生。

 氏直(幼名国王丸)は今川氏が義元の死後、同盟を反故にした信玄に駿河に攻め込まれ、氏真に当時、後継者がいなかったことから氏康が後押しし、八歳で養子に出された。むろん、北条氏が跡継ぎを他家に養子に出すことは考えづらい。

 その後、氏真に実子が生まれ、さらに氏康がこの世を去り、父の氏政が再び、武田と同盟を結んだことから今川氏とは手切れとなり、北条氏に戻されたあと、嫡男の扱いを受けたのではないか。

 氏直は天正八年(1580)、一九歳で家督を継承。北条氏は当時、西の織田信長と手を組み、この二年後の天正一〇年三月に、その彼がまず武田を滅ぼす。

 だが、同年に信長が本能寺で明智光秀に殺され、その衝撃が関東に押し寄せたことで、氏直は父が隠居後も政治を動かしていたため、自身の家督継承は名目的なものだったが、総大将として軍事活動を指揮し、そのターゲットは武田氏の旧領国。

 ここは一度、織田家の諸将が支配したが、本能寺の変で退却を余儀なくされたことから上野、甲斐、信州は“空き家”となり、それぞれ越後の上杉、武田氏の滅亡後に信長から駿河を与えられた徳川家康、そして、北条氏――という三大勢力の草刈り場となった(天正壬午の乱)。

 氏直はこうした中、武蔵と上野国の境を流れる神流川がわの合戦で、織田方の武将である滝川一益を撃破。

 織田勢を上野国から追い払い、碓氷峠を越えて信州に入ると、たちどころに国衆を帰属させ、北信濃川中島(長野市)に進出してきた上杉勢と対峙した。

 だが、謙信の養子である上杉景勝は当時、越後国内の反乱に悩んでいたことから川中島に地盤を築いただけで退却。氏直は上杉氏と和を結ぶと、甲斐に進軍し、領土の獲得に旺盛な意欲を見せつけた。

 北条軍は信州の徳川勢を追って八ヶ岳南麓を東に侵攻し、甲斐西部の若神子( 北ほ く杜と 市)に進出。家康はこれを迎撃すべく、甲府から新府城(韮崎市)に進んだ。

 その勢力はおよそ二〇〇〇で、その他の軍勢を掻き集めても一万。北条勢は二万余とされる大軍だったものの、氏直は苦戦。

 彼は甲府盆地の家康の背後を突き、若神子の本隊と挟撃する作戦を企て、武蔵と接する甲斐の都留郡に別働隊を進行させたものの、対陣が長引き、勝機を逸した。

 その後、小田原から長駆遠征していた氏直の軍勢は徳川軍に補給路を断たれ、常陸国の佐竹義重が背後から北条の領国を窺う姿勢を見せたこともあり、和睦に合意。

 結果、両者は同盟を結び、上野は北条の領国として認められたものの、甲斐と信州は徳川のものとなり、氏直は旧武田領国の奪い合いで後塵を拝する形となった。

 だが、氏直は家康の娘である督姫をめとり、これが後に自身の命を救うことになる。

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