■氏直は秀吉に許されて大坂城で対面したが…

 氏直が関八州の領国内を固めている間、羽柴(豊臣)秀吉が天下を掌中に治めると、上杉は父祖の代以来、長年の好敵手だった彼に従い、天正一四年(1586)一〇月には家康も大坂城で謁見して臣従。

 一方、督姫を正室とする氏直は家康との関係が疎遠になり、やがて秀吉の惣無事令(豊臣政権による私戦禁止令)が関東に及んだことから彼に従うか否か、選択を迫られた。

 すると、同一六年(1588)五月には家康から「(豊臣家への)出仕の儀、納得無きにおいては家康娘(督姫)、返したまうべき事」という恫喝めいた書状が届き、氏直の叔父である氏規はやがて小田原を発ち、駿府(静岡市)で彼の重臣だった榊原康政を伴って上京。

 京の聚楽第で秀吉に謁見したが、北条氏の内部では秀吉に従うことをよしとしない一派も多く、それが結局、同一七年(1589)一一月の北条討伐令につながり、翌年四月に秀吉は大軍で小田原城を包囲。

 籠城はおよそ一〇〇日に及び、この間に関東の北条方の諸城が攻め落とされ、氏直は重臣だった松田憲秀の内応もあり、秀吉方の和議に応じて降伏した。

 ただ、氏直は秀吉に対する臣従に柔軟な考えを示し、むしろ父である氏政が強硬派とされていた。

 ところが、氏直が合戦の直前、信州の国衆らを「関白豊臣秀吉を討ち果たす」ために扇動したことを窺わせる史料の存在が再確認された。

 氏直は父が許されることを条件に降伏に応じたが、その約束は反故にされ、氏政は切腹。氏直は家康の娘婿ということから、高野山に蟄居することが決まって北条氏は滅亡したとされるが、そうではない。

 彼は後に許され、大坂城で秀吉と対面。秀吉は氏直に知行を与えて大名として復活させる考えだったが、氏直はその前の同一一年(1583)に疱瘡にかかって没し、北条氏の再興はならなかった。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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