■天皇が遣唐使の復活で権威の向上を狙った!?
実際、『古代日中関係史』(河上麻由子)によれば、そもそも派遣を求めた中瓘の上表文は現存せず、朝廷が彼に下した文書の中で、その一部が引用されているだけという。
しかも、上表文は中国の地方官だった刺史が日本に遣唐使の派遣を求めたという内容。いかに唐の国内が乱れ、下剋上で地方長官が力を蓄えているといっても不審な話だ。
ところが、宇多天皇はその話を喜んだ。この天皇は一度、源姓を賜って臣籍に下ったあと、親王に復して立太子するという異例のキャリアの持ち主。
そもそも天皇になる予定ではなかったことから貴族との人脈も乏しく、親政を始めたものの、孤立無援。だからこそ、菅原道真らの学者を一本釣りして側近に起用したのだ。
つまり、遣唐使派遣という一大イベントを復活させ、ややもすると、貴族たちから軽視されがちな権威を高めようとしたのだろう。
当然、そのために、ありもしない上表文をでっち上げたとまではいわないものの、内容に不審な点があっても、これ幸いとばかりに飛びついたのではないか。
道真はむろん、遣唐使派遣の必要はないことは百も承知。計画が実在するポーズを形式的に取り繕い、自ら大使となり、すぐに中止を奏請した。
つまり、一人だけ派遣に前のめりになっている宇多天皇に計画が動いているように見せかけ、「中止」という落としどころを示して納得させることが目的だったのだ。
いわば、遣唐使がこのときに白紙に戻されたわけではなく、計画そのものが存在しなかったといえるだろう。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。