■明治天皇の父の弑殺の大逆道を企てたの記述
ただ、だからといって列強諸国との交易は止められない。
条約にはいわば、京都の外港だった兵庫港の開港が含まれ、天皇はこれに猛反対したものの、慶応元年(1865)九月にイギリス、フランス、オランダの三ヶ国連合艦隊が兵庫沖に軍艦を集結させ、軍事的圧力に屈する形で一〇月に勅許し、攘夷の時代も終焉を迎えた。
だが、その一方で天皇はそれでも幕府に大政委任しているとの姿勢は崩さなかった。
そのため、やがて討幕や大政奉還両派の公卿や諸侯にとって扱いにくい存在となり、〈近年、お風邪なども全く御用心なさらないほどに御壮健だった〉(『中山忠能日記』)にもかかわらず、わずか一〇日ほど病に伏しただけで崩御。
砒素などの毒物を、女官に盛られたとする毒殺説が根強いのはこうしたためで、確かに討幕派や大政奉還派には、いずれも殺害の動機はあった。実際、幕末の外交官であるアーネスト・サトウによれば、その可能性はあると言える。
〈天皇は天然痘にかかって死んだということだが、数年後に、その間の消息に通じている一日本人が私に確言したところによると、毒殺されたのだ〉(『一外交官の見た明治維新』)
彼は黒幕の名前については言及していないものの、討幕派だった岩倉具視をはじめ、のちに初代の内閣総理大臣となる長州藩の伊藤博文(のちの首相)にも疑惑の目が向けられた。
というのも伊藤が旧満州のハルビン(中国)で、韓国人の安重根に狙撃されて命を落とした際、一五ヶ条に及ぶ「斬奸状」に明治天皇の父の弑殺の大逆道を企てたとあったからだ。
むろん、死の真相は一五〇年以上が経った今も藪の中だが、天然痘で亡くなった可能性は医学的な見地からも薄れつつある。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。