別名は「瀬戸内のジャンヌダルク」鶴姫「水軍の女武将伝説」の真贋!の画像
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 瀬戸内海の大三島にある大山祇神社(愛媛県今治市)の大宮司の娘だった鶴姫は、戦国時代に自ら兵を率いて敵の侵攻から地元を守り、“瀬戸内のジャンヌダルク”と呼ばれる伝説の女性。ただ、『大祝家記』という史料に〈(父の)大祝安用が兵術を習わせたところ万人に優れ、技芸は申すに及ばず、兵書に通じて奇策もよく知るに至った――〉と記される反面、実在性が疑問視されている。

 実際、彼女を題材にした小説が昭和四十年代に出版されるまで、地元の大三島ですらも、ほとんど認知されていなかったとされる。今や島の観光業におけるシンボル的存在となった彼女ははたして、本当に存在したのか――。

 彼女が生まれたとされる大三島は瀬戸内海の中央に浮かぶ芸予諸島の一つ。大山祇神社は海の神、戦いの神として源平合戦の頃より多くの武将の信仰を集め、宮司を古代伊予の豪族が祖とされる越智一族が務め、やがて大祝家を称するようになった。

「祝」は神に奉仕する人を意味し、大祝家は宮司を務める一方、大三島の領主で、島内に本城の台うてな城など諸城を築いて自衛し、合戦の際は子弟が陣代(大将)として軍勢を指揮。一族である伊予守護の河野氏とともに水軍を擁し、瀬戸内海に睨みをきかせていた。

 当時、瀬戸内を中心とした地域は周防や長門などの守護だった大内氏の勢力が盛んで、豊後の守護である大友氏と結んだ河野氏と対立。中国の覇権を狙う大内氏にすれば、瀬戸内の制海権はなんとしても確保しなければならず、河野陣営に属する大三島は大永二年(1522)、その攻撃に晒された。

 それから約二〇年が経った天文一〇年(1541)六月、大内義隆が小原中務丞白井縫殿助らに数百隻の水軍を率いさせ、大三島に侵攻。

 大祝の地位は当時、鶴姫の父である安用から長兄の安やす舎お くに引き継がれ、次兄の安房が陣代として村上水軍や河野氏らの援軍を得て大内勢と合戦に臨んだ。

 鶴姫はこのとき十六歳で、彼女が馬上で黒髪を風になびかせ、大薙刀を抱えた甲冑姿で奮戦すると、味方は一斉に奮い立ち、敵の多くに手傷を負わせたという。

 ただ、鶴姫の活躍で大内勢を追い払ったものの、安房は討ち死に。

 一〇月にも大内軍が来襲したが、それでも鶴姫は彼に代わって陣代となった越智安成とともに追い散らすと、早舟で敵船に向かい、遊女が男を漁りに来たと勘違いして抛鍵などでたぐり寄せた相手の隙を突き、乗りこんで敵将の小原を討ち取ったという。

 一方、鶴姫には当時、ともに戦った安成とのロマンスも語られ、二人はやがて相思相愛の仲となったが、その仲を引き裂くように天文一二年六月、大内勢が三度、襲来。大内軍は大将に義隆の重臣だった陶晴賢を据え、鶴姫は夜明け前、闇に紛れて敵船に襲撃を仕掛けて成功したが、安成が討ち死に。彼女は恋人の後を追うように入水自殺を遂げたとされ、悲恋のヒロインとして伝説化された。

 だが、彼女の存在を明確に示す史料は前述の『大祝家記』以外に見当たらない。

 そもそもこれも彼女の死から約一〇〇年が経った江戸時代に当時、大祝が相伝の記録や口伝をまとめたとの触れ込み。その原本も残っておらず、大祝家の末裔である作家の三島安精氏の祖父が明治になって書写したものが現存するだけ。

 三島氏はその写しを基に前述の小説『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』を書いたものの、ここまでの通説にはいくつか不審な点もある。

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