■プライベート史料で活躍を誇張して表現

 まず、大内勢が三回にわたって大三島を攻めたことになっているが、大正時代に刊行された『三島大祝家譜資料』中の合戦の項目には、天文一〇年六月の第一弾で大三島サイドが〈味方、勝利を得て終わる〉とあり、敵を追い払ったことは確認することができる反面、二回目以降の記載がない。

 また、鶴姫が二回目の合戦で討ち取ったとされる小原の存在もポイント。

 大内氏研究のバイブルとされる『大内氏実録』には家臣の略歴が掲載され、〈小原中務丞隆言〉の項に〈(天文)十年六月十八日、また伊予へ赴き、七月二六日まで滞在して三島(大三島のこと)・甘崎・岡村・能島・印島(因島のこと)に戦ふ〉とある。

 能島と因島は村上水軍の拠点。つまり、大祝家が同年、村上水軍らに援軍を要請し、小原中務丞らを大将とする大内軍と合戦に及んだ事実は確認することができる。

 ところが、同年の二回目の合戦で鶴姫に討ち取られたはずの彼が一六年以降まで生き、安芸に出兵した他、のちに中国で覇を唱える毛利元就と会談したうえ、別の城攻めに参陣したことも分かる。

 以上のことから、そもそも二回目と三回目の合戦の有無も怪しく、小原が鶴姫に討ち取られなかった可能性もある。

 確かに彼女が大三島を救った真の英雄だったなら、『大祝家記』以外の史料にもそうした記述があってしかるべき。

 一方、天文一三年(1544)九月二三日付の奉納文書からは、大内義隆が大三島を支配下に置いたと宣言するため、劔や神馬などを大山祇神社に寄進したことも読み取ることができる。

 つまり、史料として残されていないものの、大三島勢は実際は二回目以降の合戦で大内勢に敗れたのではないか。

 そして、新たに支配者となった義隆に忖度し、少なからず彼に反抗した鶴姫の存在を秘匿する必要が生じたものの、江戸時代になって『大祝家記』というプライベートな史料で、その活躍を誇張して後世に残そうとした――とも考えられる。

 とはいえ、鶴姫が存在したとも言い切れず、かといって、完全に否定する決定的な証拠もなく、その実在性については現状、どちらとも言えない。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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