華麗なる豊臣一族の中でも地味!?豊臣秀吉「甥と養子の父親」2人の実像の画像
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 豊臣秀吉の正室・おね (のちの北政所)。彼女は従一位を授かり、甥の秀次は関白に上り、養子である秀秋もわずか一一歳で中納言となった。

 だが、二人の父である三好吉房と、おねの実兄である木下家定は華麗なる豊臣一族の中でも一際、地味な印象。その理由ははたして、いったいどこにあるのか――。

 まず、吉房の妻が秀吉の姉だったことは間違いない。彼女の名前は、とも(智)で秀吉よりも三歳上。尾張中村(名古屋市)の百姓である弥右衛門の長女に生まれ、一〇歳で父を亡くしたあと、吉房に嫁いだとされる。

 一方、吉房は史料によって出自がばらばらで、名前や通称も次じ ろべえ郎兵衛や弥助と定まらず、『武功夜話』には「三輪」という氏名を持つ武士として前者が登場。『武功夜話』はその三輪次郎兵衛の息子である秀次のゆかりの人物の記録を基に編纂したものとされ、信憑性があるように思えるものの、偽書説もあり、内容を鵜呑みにすることはできない。

 一方、吉房を尾張海東郡乙之子村(愛知県あま市)の百姓だった弥助(出身地については諸説ある)とする史料は多い。

 百姓の娘が武士である三輪氏の妻になるのもいささか乱暴と言えるため、本稿では吉房を百姓の弥助としたい。

 ただ、百姓イコール農民とは限らず、彼を「田夫 (農民)」とする説も確かにあるが、これを巡って面白い話もある。秀吉が織田信長に仕えて木下藤吉郎と名乗っていた頃の話だ。

 信長が美濃攻めをした際、馬に乗ることを許された藤吉郎は、乙之子村で馬曳をしていた弥助の元を訪れ、雑役に使う馬を借りた。

 だが、鞍はあってもあぶみがない。弥助は藤吉郎を馬に乗せることに迷いがありながらも、その供をしたところ、義弟が手柄を立てたことから恩賞に預かり、そのまま仕えることになったという。

 一方、吉房が秀吉に仕えて以降、妻のとも0 0 との間に秀次と秀勝、秀保が生まれ、武蔵守を称したことなどを除き、その事績はほぼ三〇年にわたって不明。

 ただ、彼は長男である秀次が秀吉の命で、阿波の名門だった三好康長の養子となった関係から三好吉房と名乗った。

 吉房は天正一八年(1590)、秀次が尾張と清洲城を秀吉に与えられると、家老として犬山城に居住。

 翌年に秀次が秀吉の関白職を継ぎ、京の聚楽第で政務を担ったため、その代行として清洲城主に栄転し、知行も一〇万石が与えられた。

 だが、秀吉に拾君(のちの秀頼)が生まれると、秀次は疎んじられるようになり、文禄四年(1595)に高野山に追放されたうえ、切腹。

 吉房はこの事件に連座して讃岐に流され、人生が一気に暗転したものの、秀吉の死後に許されて京に戻り、三位法印一路と号した。

 なお、彼の次男と三男はそれぞれ秀吉とその実弟である秀長の養子になったものの、前者は吉房の存命中に朝鮮遠征中に病死し、後者もやはり変死(自殺説もある)。

 こうして吉房は妻のとも(出家して瑞竜院日秀)とともに三人の息子の菩提を弔いながら余生を過ごした。

 馬曳、もしくは田夫だった弥助は秀吉の身内だったからこそ、思いがけず一城の主となった一方で、天下人に翻弄された生涯だったとも言える。

 一方、吉房とともに地味な印象の木下家定は素性が明らかで、おねは実妹で、父は織田信長に下級武士として仕えた杉原定利だ。

 その定利はあるとき、おねが当時は織田家の新参者で素性の怪しい足軽組頭だった秀吉と結婚するという話を聞き、激怒して義絶。

 彼女は父の義妹の嫁ぎ先にもらわれ、その養女として秀吉に嫁いだ。

 一方、家定は妹の結婚を認めるように諭す立場だったとされ、やがて秀吉の家臣となり、彼の出世に伴って木下の氏名に改称。

 家定は天正一五年(1587)、ほぼ天下を掌中に収めていた秀吉から姫路城を与えられた。

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