■一族の多くが滅びる中地味な家系が存続した

 姫路はその天下統一を実現するうえで、安芸の毛利に睨みを利かす重要拠点で、秀吉は大坂築城後、その支配を実弟の秀長に委ねている。

 家定はそれだけ重要な城を与えられたことになるが、当時は毛利と講和が実現し、秀吉の天下がほぼ確定した頃。

 姫路城の重要性は薄れ、城主には戦略眼よりもきめ細かな治政が求められる時代になり、そうした意味ではまさに適材適所だった。

 家定は城主になると、城下の空き屋敷などを調査させ、不要な部分については取り壊して農地化するという地道な政治を実行。

 秀吉はこうした義兄の事務能力の高さを買ったのだろう。

 家定に与えられた石高は一万一三四一石とわずかだったものの、豊臣姓を授けられ、大坂城の留守居に任ぜられた。

 そんな家定は秀吉の死後、慶長五年(1600)に石田三成らと徳川家康が権力を競って関ケ原の合戦が勃発すると、その去就が当然、注目を集めるようになった。

 だが、彼は当時、大坂城を出て京にいた実妹を守るという口実をえて上方から動かず、石田三成らに与さなかった。

 一方、小早川家に養子に入って秀秋と名乗っていた五男が三成を裏切り、家康方になっていたこともあって、家定は戦後の論功行賞で備中国に二万五〇〇〇石を与えられ、足守城(岡山市)の城主となった。

 そして、慶長九年(1604)に二位法印に叙せられて浄英と号し、同一三年に京都で死亡。

 遺領は一時、没収されたものの、元和元年(1615)の大坂夏の陣後、次男である利房が足守藩の相続を許され、三男の延俊は豊後日出藩主となった。

 秀吉の下積み時代から仕えたわりに、その活躍はほとんど伝わらない反面、豊臣一族の多くが滅ぼされる中、地味な家定の家系はこうして江戸時代を生き抜いたのだった――。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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