■暗殺を認めたことから打ち首獄門となった!
通説によれば、彼はこの間、坂本龍馬の紹介で幕臣の勝海舟のボディガードになったとされる。
その根拠は海舟の同年二月五日の日記に、龍馬とともに「岡田」が大坂に訪ねてきたとあるからだ。
ただ、どうやら岡田違いのようで、『正伝 岡田以蔵』(松岡司)によると、以蔵が二月七日に江戸在府中の高杉晋作を訪ねたことが他の史料から明らかになっているという。
この時代、二日で大坂から東京に移動できたはずがなく、以蔵は海舟と交流のあった晋作の指示により、ボディガードになったのではないだろうか。
その海舟の談話筆記『氷川清話』によると、以蔵が京で暴漢を斬ったあと、次のやり取りがあったという。
海舟「人を斬るのをたしなんではいけない。先日のような挙動は改めたほうがよかろう」
以蔵「ですが先生、あのとき私がいなかったら先生の首はとっくに飛んでしまっておりましょう」
さすがの海舟も以蔵の反論に返す言葉がなかったという。
人斬りの面目躍如といったところだが、海舟の元を離れた彼は食い詰めたらしく、商家に因縁をつけて金を脅し取ろうとして、前述の通り捕縛され、京より追放された。
一方、土佐では吉田東洋殺害などの疑いで半平太が投獄され(その後に切腹)、藩は京都奉行所から以蔵の身柄を受け取る形で勤王党の罪状について口を割らせ、彼が井上佐一郎の殺害を認めたことから慶応元年(1865)閏五月、打ち首獄門に処せられた。
●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。