地方豪族出身ながら大臣に出世!吉備真備の「左遷地獄と逆転人生」の画像
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 家柄が重要視された奈良時代、地方豪族の出身でありながら右大臣にまで上った吉備真備。彼は度重なる周囲の嫌がらせや左遷にめげることなく、いかにエリート官僚となったのか。

 吉備真備は備中国(岡山県)出身。今の倉敷市真備町辺りが勢力圏だったとされる下道一族の子弟で、極官を望むべくもない下級官吏の家柄だったが、養老元年(717)に二三歳で遣唐使の留学生となって入唐したことから運が開けた。

 唐では後年、天才学者と呼ばれた彼の能力を存分に発揮。十八年の留学期間中、儒教や史学、兵学などに関する書物の他、貴重な楽器や兵器を日本に持ち帰り、それまで多くの留学生が唐に渡ったが、現地でその名が知れ渡ったのは阿部仲麻呂と真備だけだったとされる。

 そんな真備は天平七年(735)に帰国すると、とんとん拍子に出世。従八位下に過ぎなかった官位が翌々年には従五位下となり、その一年後に橘諸兄が右大臣に就くと、同じく唐から帰朝した僧の玄昉とともに重用され、同一三年(741)に東宮学士に任命された。

 当時は聖武天皇の御代で、彼と光明皇后の間に生まれた阿部内親王(のちの孝謙天皇)が東宮(皇太子)で、真備は当時、四七歳。

 将来の天皇の家庭教師が地方豪族出身では格が見合わず、彼は五二歳のときに吉備姓を賜ってエリート官僚となり、その三年後に阿部内親王が即位すると、従四位上に叙位された。

 ただ、好事魔多し。真備は翌年正月、藤原一族のプリンスだった藤原仲麻呂が橘諸兄から政権を奪い返そうと、その側近を遠ざけようとしたことから筑前守に左遷され、出世の道が突如、閉ざされた。

 その仲麻呂の後ろ盾が叔母である光明皇后。藤原氏出身の彼女と仲麻呂の利害が一致した形で、彼はこの年、皇后宮職の権限を発展拡大させ、紫微中台を創設し、その長官(紫微令)に就任。それまで皇后の家政機関に過ぎなかった組織の権限を強化して太政官を抑え、政権を掌握した。

 実際、『続日本紀』に〈左降〉とある通り、真備の人事が左遷だったことは確かで、彼は続いて肥前守に移され、さらに中央から遠ざけられた。

 筑前と肥前はかつて、仲麻呂の従兄弟である藤原広嗣が真備と僧の玄昉の追放及び、諸兄政権の打倒を図ろうとして挙兵した土地。

 仲麻呂は当時、時期尚早と考えたようで従兄弟には与せず、反乱は鎮圧されたが、その意思を汲む形で真備を地方に追放したわけだ。

 彼にすれば、自身を失脚させようとした勢力が潜む牙城に送り込まれたようなもの。まさに強烈な嫌がらせだ。

 だが、仲麻呂の嫌がらせはこれだけでは済まなかった。

 真備は天平勝宝三年(751)、遣唐副使に任じられ、五八歳のときに船で日本を出発。当時、波濤を越えて唐に渡ることは危険で、一回目の渡唐の際は奇跡的に帰国することができたものの、すでに高齢となった彼が再び、生きて日本の地を踏むことができるかは分からず、まさに究極の左遷。

 それでも真備は同五年(753)一二月に無事、日本に帰り着き、唐の高僧である鑑真を連れ帰った。その鑑真は後の日本における仏教の発展に大きく貢献。

 真備の遣唐副使としての功績は大きく、翌年に正四位下が授けられたが、またしても仲麻呂の魔の手が伸び、ほぼ同時に太宰府(福岡県)に飛ばされた。

 つまり、仲麻呂によって三回、左遷に遭ったとされるが、この通説には一考の余地がある。

 まず、最初の左遷については、唐で兵学を学んだ真備に軍略家の才能があり、藤原広嗣の牙城だった筑前及び、肥前で乱の再燃を防ぐ役割が期待されていたこと。

 二回目の左遷は一八年に及んだ入唐経験を活かすためだったとも言え、三回目も軍略の才を期待された側面がある。

 当時は日本と朝鮮(新羅)が緊張関係にあり、仲麻呂は後に出兵を計画。朝廷はそのために北陸道と山陰道、山陽道、南海道の諸国に船の建造を命じ、出兵期限が天平宝字六年(762)に定められた。

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