■度重なる左遷に負けず七二歳で右大臣に任官

 一方、大宰府は当時、外交の窓口に当たり、九州は新羅が日本に侵攻してきた際の最前線作戦基地。事実、真備の赴任中に新羅問題で大宰府から中央政府に防衛計画の進言がなされ、その作戦の中心に彼がいたとされる。

 とはいえ、仲麻呂にどんな理由があったにせよ、真備にしたら、左遷は左遷。

 ただ、彼が六〇歳で大宰府に赴任し、七〇歳で中央に呼び戻される間、政府内の政治バランスが一気に変わった。

 まず、仲麻呂の後ろ盾だった光明皇后が没し、続いて怪僧道鏡が出現。上皇となっていた孝謙女帝は、自身の病の平癒に功績があった道鏡を寵愛し、それを批判する仲麻呂と対立が決定的となっていた。

 むろん、こうなると、もはや朝鮮出兵どころの話ではない。

 天平宝字八年(764)正月、真備は造東大寺長官として平城京に戻ったものの、奈良時代における最大の国家事業の最高責任者とはいえ、軍事的な権限はない。

 孝謙上皇と仲麻呂が対立する中、彼女の家庭教師だった真備が軍事的なポストに就くと警戒されると考え、女帝があえて無関係なポストを与えたのだろう。『続日本紀』は真備が造東大寺長官となって入京したあと、〈以病帰家〉とし、病気で家にいて出仕しなかったと記している。

 だが、これは仲麻呂の目を欺くための策だろう。実際、真備はこの年の九月に仲麻呂が挙兵した際、「軍務参謀」として直ちに反乱軍を鎮圧し、彼を敗死させた。

 ともあれ真備はその功などによって、乱後の天平神護寺二年(766)、七二歳で右大臣に任官。度重なる左遷にもめげず、学者として稀有な出世を遂げた。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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