「鹿ヶ谷の陰謀」平氏打倒の密議は平清盛によるでっち上げ説の真相の画像
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 安元三年(1177)五月、京の東山にある俊寛僧都の山荘に後白河法皇と近臣らが集まり、専横著しい平氏打倒の密議をこらした。山荘のあった地名から鹿ケ谷の陰謀(密議)と呼ばれる歴史的事件だ。

 だが、現在は実際に陰謀があったか疑問視され、事件そのものが平清盛によるでっち上げだったという説もあるほど。はたして真相は――。

 この事件は『平家物語』に詳しく描写され、酒席における出席者の悪ふざけが次のように書かれている。

〈あるとき鹿ヶ谷の山荘に法皇が行幸なさい、酒宴が開かれた。新大納言藤原成親(院の別当)が狩衣の袖に瓶子をひっかけて倒れるのを見て(平氏と瓶子をかけ)、「平氏が倒れた」といった。やがて皆が猿楽を舞いはじめ、俊寛が鼓に合わせて転がる瓶子に「それ(瓶子=平氏)をいかに致しましょう」というと、西光法師(法皇第一の近臣)が「頸を取るしかないでしょう」といい、瓶子の首を打ち砕いて席にもどった〉

 一方、陰謀に関する具体的な記述はない。ただ、密告があったことが詳しく書かれている。

〈(成親から白布五十端を贈られ、謀反への加担を約していた)多田蔵人行綱はただ虚勢を張るだけでは謀反などかなうべくもないと思い、五月二九日の夜更け、清盛の西八条邸を訪れ、平盛国(清盛側近)に「(法皇の近臣らが)兵具をととのえ、軍兵を催している」と密告に及んだ〉

 さらに話は続き、それによると、清盛は大いに驚き、三男である宗盛の兵ら六〇〇〇から七〇〇〇を西八条邸に参集させると、二九日夜半から翌日早朝にかけ、検非違使の一人を院の御所に向かわせ、まず成親を捕縛(その後に配流先で殺害)。

 清盛は続いて、大慌てで院の御所に馳せ向かう途中だった西光の身柄を確保させると、西八条邸の縁の際に据え、踏みつけて罵倒したが、彼は悪びれた素振りもなく、激しく糾問された末に口を裂かれ、五条西朱雀で斬首されたという。

 密告した行綱が「虚勢を張るだけ」と言った通り、「兵具をととのえ、軍兵を催している」という噂だけで、陰謀を巡る具体的内容は現在に至るまで不明のまま。

 それゆえ、西光らは山荘で悪ふざけをしていたに過ぎず、謀反計画は濡れ衣と考えられるようになった。

 だが、山荘で密議をこらしたこと自体は事実のようで、謀反の計画でなかったのなら、いったい何が話し合われたのか。

 その答えは事件一年前の三月頃にありそうだ。

 当時、西光の子息である加賀守の藤原師高と加賀目代だった藤原師経の兄弟が、加賀一ノ宮白山宮と所領の帰趨を巡って争い、弟がその末寺などを焼き払った。

 白山宮は本山の比叡山延暦寺に泣きつき、後白河法皇に厳しい処罰を嘆願。

 ところが、法皇は師経を備後国に配流すると決定したものの、兄の師高はお咎めなし。納得できない比叡山の僧兵ら約二〇〇〇人が神輿を奉じ、四月に内裏に強訴に及んだ。

 このとき、清盛の長男である重盛は内裏を警護し、その手の者が放った矢が神輿に命中し、僧兵らの怒りに油を注いだ。

 結果、師高の尾張配流と神輿を射た武士らが処分され、騒動が一度は鎮まったが、五月に延暦寺のトップだった明雲が拘束され、翌日に天台座主の職を解かれた。

 強訴の責任を問う形で法皇側が反撃に転じたのだ。

 それから間もなく明雲の伊豆配流が決定すると、僧兵ら約二〇〇〇が決起し、配流途上だった明雲の身柄を奪還する事態に発展。激怒した法皇が延暦寺に対する武力攻撃を決め、平重盛らに出陣を命じた。

 のちに織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちにし、後世、批判を浴びたが、怒りにまかせて攻撃を命じた法皇はともかく、命じられた側は当然、仏法の府に矢を射かけることに躊躇せざるを得ない。

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