■平氏の打倒ではなくて比叡山攻撃を話した!

 重盛らが当時、福原(神戸市)にいた清盛の判断を仰がずに兵を動かすことはできないと言い逃れしたため、法皇は使いを出し、清盛はその直後、西八条邸に入った。

 明雲や延暦寺と良好な関係を築いていた清盛は事態を無難に収めたかったが、法皇に押し切られたことから窮余の策として『平家物語』にある捕り物劇に直後に発展。

 つまり、武力衝突を避けたい清盛が、対延暦寺強硬派だった院近臣らに謀反という罪をかぶせ、法皇側の動きを抑えて幕引きを図った、というのがでっち上げ説だ。

 当時の右大臣だった九条兼実(のちの関白)が書いた日記『玉葉』には、西光摘発の理由が二点、挙げられ、第一点が年来の「凶悪事」で、二点目が明雲配流を法皇に進言したこと。

 まず、謀反とせずに「凶悪事」と曖昧な表現にしているあたりに濡れ衣の可能性が滲み、さらに後者の理由から摘発の真の狙いも透ける。

 しかも、『年号次第』という当時の史料に、延暦寺を「滅亡(武力攻撃)」させる「僉議」の参加者に西光、俊寛、成親の名がある。彼らは皆、鹿ケ谷山荘の密議の参加者。

 つまり、鹿ケ谷の陰謀と呼ばれる事件は実際にあったものの、平氏打倒ではなく、比叡山に対する武力攻撃について密議したとみられる。

 ただ、『玉葉』によると、西光が尋問された際、清盛の命を狙う「謀議」があったと自白したという。

 清盛の意を受け、どうしても謀反の計画があったことにしたい“当局”が西光に自白の強要を迫った可能性もあり、鎌倉時代に誕生した『平家物語』がこれらの事実を組み合わせ、虚構も加えて冒頭のシーンを作り上げたのではないか。

 また、陰謀の発覚には密告者の存在が必要。そのため、事件が清盛らの狙い通り謀反の計画として広まるうち、さらなる尾ひれがついた。

 つまり、多田行綱と同じ摂津源氏の源頼政が平治の乱(1159年)で源氏勢を裏切って平氏に与していたため、その一族の行綱が密告者に仕立て上げられたといわれる。行綱もまた、とんだ濡れ衣を着せられたことになる。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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