NHK大河『鎌倉殿の13人』のメイン級!幕府の実権を掌握した女性政治家・北条政子と日野富子「悪女説」真相の画像
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で北条政子を演じる小池栄子

 二〇二二年のNHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』の主人公は、北条義時。彼は執権政治を確立させた立役者として知られ、俳優の小栗旬が演じる。

 一方、初代鎌倉殿だった源頼朝の死後、妻の北条政子は自身の弟である義時らとともに幕府の実権を握り、「尼将軍」として、その名を歴史に残した。彼女に劇中、女優の小池栄子が扮する。

 そんな政子は数少ない“女性政治家”として、室町幕府八代将軍である足利義政の妻だった日野富子と比較されることも少なくなく、二人の評価は一般的に不思議と、いずれも「悪女」。

 いったい、なぜだろうか。その二人には将軍御台所(正室)という共通点の他にも、意外な関係性があった――。

 建保七年(1119)、三代将軍の源実朝が暗殺されたことから執権の義時と政子(二位の尼)は都から後継者として、関白九条道家の四男で頼朝の遠縁に当たる三み寅とら(のちの四代将軍・九条頼経)を迎えた。

 彼は当時、まだ二歳で、政子が将軍の代理を務め、将軍に補任されたのは彼女の死後。

 実際、鎌倉幕府の公式歴史書である『吾妻鏡』は、巻頭の「関東将軍次第」で「頼朝」「頼家」「実朝」の三代将軍の名を挙げたあと、「頼経」の前に「平政子」を差し挟む。

 むろん、政子が将軍に補任された事実はないものの、彼女が亡くなる嘉禄元年(1225)までを、その治世としている。

 一方、義時はこの頃、守護地頭の補任といった重要案件に関わる単独署名の「下知状」を出し始めたように、幕府の権力を掌握。

 この下知状は「下知如件(下知くだんのごとし)」という書止形式で締めくくられる書状で、「仰せに依りて」との文言が加えられ、誰の「仰せ」かといえば、政子以外には考えられない。

 実際、その二人の姉弟関係について、天台座主・慈円の書『愚管抄』は次のように記している。

〈さて鎌倉は、将軍(実朝)の跡を母堂の二位(政子)が総領し、舅父(母の兄弟という意味)の義時が沙汰してあるべし〉

 つまり、政子が事実上、鎌倉殿を継いで最終決定権を持ち、義時の権限はあくまで、姉の命令を沙汰(決定事項の通達)するだけだったと言える。

 ただ、実朝時代の下知状には「鎌倉殿の仰せにより、下知くだんのごとし」とあり、彼の命令であることが明言されていた一方、政子の頃には「鎌倉殿」の文字がない。

 当然、誰の仰せかは分からず、政子は厳密には「鎌倉殿」ではなかったとはいえ、彼女の指示がなければ拘束力がなかったことも確かと言える。

 だとすると、政子は正確には“擬制鎌倉殿”というべき存在ではないか。

 彼女はこうして後世、「尼将軍」と呼ばれるようになり、約二五〇年後に日野富子が政治を担う時代になると、理想の女性政治家像として復権を果たす。

 応仁の乱の勃発以降、室町時代中、末期の史料である『大乗院寺社雑事記』に〈公武上下昼夜大酒〉とあるように、朝廷や幕府では昼から大酒に飲まれることが常態化。

 その渦中の文明五年(1473)、室町幕府八代将軍の足利義政は九歳の義尚を元服させて、将軍職を譲って隠居して以降、日明貿易など利権が絡む案件を除けば政治に対する関心を失っていき、現実逃避の傾向が強まっていた。

 となれば、御台所の富子が当然、政治を見なければならない。

 だが、前述の『大乗院寺社雑事記』には富子が莫大な蓄財をしていたと書かれ、彼女を守銭奴の「悪女」とする風潮が高まった。

 ただ、彼女は何も私腹を肥やすために蓄財したわけではなく、西軍に属する畠山義統に一〇〇〇貫を貸しつけたこともあった。

 畠山勢は二カ月後、軍を国元に引き揚げ、西軍諸将はこれを機にすべて下国して大乱は終結。

 富子は他にも大名貸しつけを行ったとみられ、その狙いが大乱の終息と平和の実現にあったと思われる一方、朝廷との外交を担った彼女が工作資金を出費した事実も史料から散見される。

 とはいえ、彼女は多くの遺産を残したとされ、守銭奴疑惑を完全に払拭することはできない。

 ただ、そんな彼女が「悪女」というのなら、妻に政治を任せ、東山山荘(銀閣寺)の築造などに逃避した夫の義政こそ、「悪人」というべきではないか。

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