■根幹を揺るがせた江川卓
ここからは明暗分かれた歴代ドラ1の“その後”を振り返ってみたい。ドラフトといえば、制度の根幹を揺るがせた存在でもある江川卓は欠かせないだろう。
かの“空白の1日”を利用した江川事件は、1973年に阪急、事件前年の77年にクラウンの1位指名を、それぞれ拒否する前段があった。江川には、阪急黄金期、山田久志との“Wエース”の道もあったわけだ。そのすごさを現役時代にかいま見た愛甲猛氏が言う。
「もし江川さんが高校からプロに入っていたら、通算135勝の倍は、ゆうに勝てた。それぐらい、すごい投手だったよね。
ただ当時のパ・リーグと巨人では、ブランド力が雲泥の差。元阪急の肩書きじゃ、引退後にタレントとして、あれだけ活躍できなかっただろうから、結果的には巨人を選んで正解だったとも思うけど」
■プリンスホテルの“囲い込み”
その愛甲氏も、大学球界のスターだった原辰徳と人気を二分した、80年の目玉選手。
同年のドラフトは、高山郁夫(秋田商)と川村一明(松商学園)が、阪急、日本ハムの1位指名をともに拒否して、社会人の強豪プリンスホテル入りしている。当時、問題となった西武グループによる“囲い込み”が原因だ。
「その差配をしていたのが、プリンスホテル総支配人で、俺も“オヤジ”と慕っていた幅(敏弘)さんでね。
実は俺にも“今年は石毛(宏典)で行くから、おまえは獲れない”“その代わり、何年かしたら拾ってやるから”という話が、事前にあったんだよ。
あの年は中尾(孝義)さんもプリンスから1位で中日に入ったけど、あの人も最後は西武に行った。やったことの是非はあるにしても、口約束だけじゃなく、実際に面倒見もよかったことだけは確かだね」
■小池秀郎の“拒否”事件
そんな愛甲氏が主軸のロッテが激震に見舞われたのが、90年のドラフト。
前年の野茂英雄(新日鉄堺→近鉄)と並ぶ最多8球団が競合した、亜大の小池秀郎の“拒否”事件だ。
「俺のときもそうだったけど、“指名しない”と明言しておきながら当日、それをひっくり返す、というのは当時、よくあった。小池に関しては、まず間違いなく当時の金田(正一)監督が悪いよね(苦笑)。
後に中日で一緒になったときは“愛甲さんに会ったら絶対、殴られると思ってました”なんて言ってたけど、本人はとてもいい奴で。それだけに時機を逃したのは惜しいよね」(愛甲氏)